勢力以上に、赤井氏(荻野氏?)みたいな出自のよく分からない家に妹を嫁がせる関白が不思議です。
近衛前久もまあ随分と行動的な変わり者だったようですが…。
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八鹿にはこれを拝みに立ち寄りました。(飛び出し坊やではないです)

このお堂の中に赤松広秀の供養塔があるのです。


秀吉時代の竹田城主であった広秀が養蚕を奨励していたため元文三年の飢饉にも耐えられ、その翌年に御恩を称えて建立したものと伝わっているようです。
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3558.htm
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丹波、但馬、因幡と山陰方面に行ってきたんですが「丹波戦国名将伝」という丹波市観光振興課発行の素敵なパンフレットを入手しました。
赤井直正vs明智光秀の概略と史跡を紹介する内容ですが、赤井直正のイラストがいいんですよこれが。


内容も、藩政をしいたわけでもない地方の一武将の紹介としては、一般向けのパンフレットにはありえないくらいは詳しいです。
(近衛前久との関係について触れられていないのがちょっと勿体ないですが…)

もちろん、最も推しているのは黒井城跡です。
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戦え!官兵衛くん。 第219話 本願寺の焦燥②
http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-318.html
先日の中央図書館で例の神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』も軽く読んだのですが、まさにこのあたりの、本願寺と末端の過激化した門徒の話が書かれてました。
本願寺は門徒領国化はもとより在地支配への反抗を説いたことはなく、逆に信長の方でも本願寺の討滅など考えておらず、真宗の信仰自体を禁じようとしていないとも。
信長が危険視したのは、寺領が治外法権化されて犯罪者や敵対勢力の逃げ込み先として利用されることで、長島への攻撃も斎藤家の…[全文を見る]
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http://h.hatena.ne.jp/k-holy/316612899115963514
最近の研究では、辵家棍法術奥義、纏劾狙振弾を編み出した創始者の呉竜府の名をもってゴルフの起源とする説が有力だそうですよ!!

民明書房『スポーツ起源異聞』より
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あと余談ですが、武田家によって没落させられた旧信濃守護の小笠原長時も永禄4年頃から京都で活動しており、こちらは三男の貞慶が三好長慶から偏諱を受けるなど三好政権に近い立場でした。
おそらく将軍義輝の元へ共に参集することもあったでしょうが、『言継卿記』の永禄七年十月十八日条に記された信虎の席次は、公家衆の直後で武家衆の筆頭とのこと。
この時点では信濃守護職は将軍義輝によって武田晴信に与えられた後ですし、信虎は前甲斐守護としても小笠原長時より高い家格を認められていたようです。この二人、どんな顔で挨拶してたんでしょうか(笑)
一方、信長上…[全文を見る]
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そういえば宗三左文字が信長の手に渡ったのも、元はといえば三好政長から信虎、信虎から今川義元へと贈られたためでした。
Web上では信虎が手にした時期は見つけられませんが、今川義元への娘の輿入れに際して贈ったとすると、阿波勢を率いて堺に上陸した三好勝時・政長父子が高国方に勝利して上洛する大永7年(1527)以降、信虎が今川氏と和睦した天文6年(1537)以前になるでしょうか。
信虎の甲斐統一は大永2年(1522年)頃ですが、どんな目的で贈られたのかが気になるところです。
ちなみに政長が(表面上)隠居して宗三を名乗るのは天文13年5月なので、その前にもう手放していたことになりますね。
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永禄11年(1568)9月に信長が義昭を奉じて上洛してからも、信虎は引き続き在京していますが、元亀4年(1573)3月の義昭挙兵に際し信長に内通した細川藤孝への3月7日付の信長書状に、甲賀に滞在していた信虎が近江への出兵を企てているとの報告があったことが記されていて、反信長方としてゲリラ的抵抗を続けていた六角氏と協力して近江を攻撃しようとした様子が伺えるとのことです。
武田家の動きは信長との手切れが元亀3年(1572)10月で12月に三方ヶ原の戦い、元亀4年2月に野田城攻略、4月に信玄が死んで撤退という流れ。
信虎は信玄没後に甲斐帰国を打診したものの、まだ武田…[全文を見る]
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越前朝倉殿に子息十二人あり。金吾は十二番目也。四番目を小太郎といひ、五番目を五郎と云ふ。五人張(ごにんばり)をひかれし強弓(つよゆみ)なり。或時兄弟寄合(よりあひ)給ひ、雙方の侍衆(さぶらふしゆ)相撲(すまふ)をとるに、小太郎方勝ちぬ。小太郎弟にむかひ、「參(まゐ)りた參りたの」と名乘られし。五郎無念に思はれ、近々とより、一刀(たう)に小太郎を切殺されし。小太郎女房尼になりて後、遺恨やまず、人數(にんじゆ)を催し、五郎の館(たち)へ押寄せ、遂に國に置かれざりし時、
「越前にものきれ二ついで來たりあまくにたちに五郎入…[全文を見る]
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永禄元年11月には義輝が三好長慶と和睦して入京、三好政権のもとで幕府が再興されますが、その後も永禄4年7月に六角義賢が細川晴元の次男晴之を擁して挙兵し河内の畠山高政と連合し挟撃を図るなど、不安定な情勢が続く最中、永禄3年5月の桶狭間合戦が起きるわけです。
信虎はその間も引き続き在京していますが、永禄5年または7年と見られる信玄書状には信虎の駿河帰国を尋ねるよう命じたものがあり、『言継卿記』では永禄8年から9年にかけてに信虎の姿が現れず、永禄10年正月の年始挨拶に訪問するも留守、同年4月24日には門前で信虎および伊勢備中守とすれ違ったことが記さ…[全文を見る]
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おお、それをまとめたのが安楽庵策伝なんですね。Web上にもありました。
http://www.geocities.jp/sybrma/386seisuisyou.makino1.html
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甲斐國(かひのくに)武田信虎公の息女(そくぢよ)を、菊亭殿(きくていどの)へ契約ありしが、まだ聟入も無き先に、信虎公菊亭殿へおはしける時、
「むこいりをまだせぬ先(さき)のしうと入(いり)きくていよりもたけた入道(にふだう)」
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江州(がうしう)六角(かく)佐々木四郎と三好家ととりあひ、鴨川迄出(いで)らるれども、三好家のつよくして、佐々木退(しりぞ)かれぬる時に、おうていはなし
「世中(よのなか)をしらうしらうといひけれど鴨川までもしようていはなし」
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知ろうと四郎、しよう体?と承禎を掛けてるんですね。面白い(笑)
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・柴辻俊六編『武田信虎のすべて』より、丸島和洋「甲斐国追放後の武田信虎」
ずっと気になってた、信虎の在京時期と動向について。
『甲陽軍鑑』では永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦以後、次第に氏真との関係が悪化して駿河から追放されたとし、晴信に対して駿河出兵を提案する様子が描かれますが、これは武田家の駿河攻めを正当化するための脚色のようです。
『言継卿記』永禄元年正月四日条には年始の挨拶回りの際に「甲州武田入道」と会っていることや、三月十六日条で信虎に手紙を出したが不在であったことが記されていて、その後も永禄2年、3年、6年、6年と年始挨拶で…[全文を見る]
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伏見稲荷大社の公式サイトにも、骨皮道賢が稲荷山に陣取った話について書かれてます。
http://inari.jp/about/num03/
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応仁2年(1468)3月15日、多賀豊後守高忠の従者で細川氏の与党・骨皮左衛門尉道賢を首領とする軍勢が、比較的新しく当社祠官家に加わったと見られる荷田氏の羽倉出羽守と示し合せて、伏見・木幡・藤森・三楢・深草・淀・竹田・鳥羽等を眼下に見下ろすことが出来る要害の地ともいうべき稲荷山に陣を設け、山名持豊軍の糧道を絶ったのです。
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稲荷社祠官の羽倉家出身と思われる羽倉出羽守が進んで東軍に協力したらしいことも、面白いです。…[全文を見る]
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今日は自転車で1時間かけて中央図書館まで行き、気になった本の気になる辺りを拾い読みしてきました。
・早島大祐『足軽の誕生 室町時代の光と影』
応仁の乱で東軍方として稲荷山に陣取って活躍、西軍の朝倉孝景に討ち取られたという骨皮道賢のことを調べました。
道賢は「都鄙悪党」と呼ばれた足軽の頭領ですが、寛正3年(1462)侍所所司代に就任した多賀高忠の元で目付となり警察業務の一翼を担って、土一揆の鎮圧に貢献したとのこと。
他にも嘉吉の乱で没落した赤松牢人たちの動向として、三条家に奉公して赤松家再興のきっかけを作った石見太郎左衛門の話、朝倉孝景の下…[全文を見る]
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ひさびさに今日の『戦え!官兵衛くん。』へのつっこみ
登場人物紹介 播磨最終決戦編 その3
http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-315.html
宇野祐清www
ちなみに宇野氏は赤松の御一族衆ですが、香山城も配下にしてますし、結構大きな勢力だったようですね。
安積氏は鎌倉以来の御家人ですが赤松氏被官となり、一族の有名人には「嘉吉の変」で将軍足利義教の首を斬り落としたという勇将・安積監物行秀がいます。
長水合戦では織田方となった則房に従い、戦後に感状を与えられているようです。
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ちなみに『朝倉始末記』所収系図によると、織田敏定の母は朝倉孝景(英林)の祖父にあたる教景(心月)の娘、英林の孫である貞景の母が織田孫左衛門尉の娘で、英林の代には織田家とも縁組していたようです。織田孫左衛門が誰なのかは分かっていないようですが…。
あと『朝倉氏の家訓』には、英林六男の時景、七男の景儀が共に織田の家督を継いだとして、収録の『朝倉家伝記』の系図を見ると確かに六男のところに「孫七 叔海性波 集雲軒主還俗 織田家督」とあるのですが、Web上の情報では「織田庄を領した」とあります。
元々、尾張の織田氏は越前織田庄の劔神社の神官出身と…[全文を見る]
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明応の政変前後における朝倉氏の動きについて、一乗谷朝倉氏遺跡資料館『朝倉氏の家訓』およびWikipediaから確認。
長享元年(1487) 第一次六角征伐、将軍義尚の命に応えて敦賀郡司朝倉景冬(孝景の弟=貞景の大叔父、応仁の乱では「朝倉の小天狗」の異名で呼ばれ活躍した勇将)が坂本に出陣、貞景自身も敦賀まで出陣
明応2年(1493) 細川政元の要請に応じ、大野郡司慈視院光玖(こちらも孝景の弟=貞景の大叔父)が被官の杉若藤次、久原平兵衛尉を京都に派遣、明応の政変
明応3年(1494) 加賀門徒を味方につけた甲斐氏の侵攻を受け越前豊原寺に出陣、朝倉教景(宗滴)18歳で…[全文を見る]
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神山駿河入道周賢については、Googleブック検索で『政覚大僧正記』文明17年4月26日「赤松大膳大夫」政則の分国内薬師寺別当領の保全を依頼、その使者に「神山駿河守」とあります。他にも『山科家礼記』に文明2年12月7日備前居都庄遵行を神山駿河守に預く、とも。
『古事類苑』にも名前が挙がっているようですし、いわゆる故実家として赤松氏と付き合いがあったのでしょうか。
ともあれ、松島周一氏の論文によれば、浦上則宗と織田敏定は意気投合し、斯波義寛のために朝倉貞景から越前を取り戻そうと画策していたそうでて、近江の陣中においても赤松政則の陣営に斯波義寛と…[全文を見る]
/ホリィ(新人)

