戦え!官兵衛くん。 第219話 本願寺の焦燥②
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先日の中央図書館で例の神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』も軽く読んだのですが、まさにこのあたりの、本願寺と末端の過激化した門徒の話が書かれてました。
本願寺は門徒領国化はもとより在地支配への反抗を説いたことはなく、逆に信長の方でも本願寺の討滅など考えておらず、真宗の信仰自体を禁じようとしていないとも。
信長が危険視したのは、寺領が治外法権化されて犯罪者や敵対勢力の逃げ込み先として利用されることで、長島への攻撃も斎藤家の牢人たちを受け入れたことが原因のようです。
そう考えると、浅井・朝倉連合軍に協力した比叡山を焼き討ちにしたのも、かつて三好家の兵站基地として発展し赤松政村も何度か逃げ込んだ堺に対して、二万貫という巨額の矢銭を要求し牢人を抱えないことを約束させたのも、同じ道理ではないかと。
播磨の英賀と同じく港町・寺内町(法華宗ですが)として発展した尼崎は、矢銭を拒否して焼き討ちされましたが、英賀も降伏しなければ同じ目に遭ったのでしょうか。
また、信長が本願寺を滅ぼそうとしたため已む無く蜂起したと主張したのは、実は東西分裂後の本願寺の側で、軍記物がその影響を受けたため、後世にもそのように伝えられてきたという話もありました。
そもそも当時の記録には「一向一揆」という表記がほとんど見られず、本願寺=一向宗=一揆と結びつけて捉えるのは誤りの元だということです。
戦後の真宗史の研究が、階級闘争史観のもとで民衆運動の研究として進められてきた影響も大きいのでしょう。
