明応の政変前後における朝倉氏の動きについて、一乗谷朝倉氏遺跡資料館『朝倉氏の家訓』およびWikipediaから確認。
長享元年(1487) 第一次六角征伐、将軍義尚の命に応えて敦賀郡司朝倉景冬(孝景の弟=貞景の大叔父、応仁の乱では「朝倉の小天狗」の異名で呼ばれ活躍した勇将)が坂本に出陣、貞景自身も敦賀まで出陣
明応2年(1493) 細川政元の要請に応じ、大野郡司慈視院光玖(こちらも孝景の弟=貞景の大叔父)が被官の杉若藤次、久原平兵衛尉を京都に派遣、明応の政変
明応3年(1494) 加賀門徒を味方につけた甲斐氏の侵攻を受け越前豊原寺に出陣、朝倉教景(宗滴)18歳での初陣
明応4年(1495) 明応5年(1496) 美濃土岐氏の後継者争い(船田合戦、嫡子政房を擁立する斎藤氏と末子元頼を擁立する石丸利光の争い)に斎藤妙純(貞景の舅)への加勢のため出陣
明応7年(1498) 畠山政長家臣、越中守護代・神保長誠の元に逃れていた前将軍義尹を一乗谷に迎える
なお、船田合戦では織田大和守家の敏定・寛定父子が石丸方(石丸利光の娘が寛定の室)、織田伊勢守家の寛広が斎藤方について争っているほか、近江勢も参戦し、六角高頼が石丸方、京極高清が斎藤方についています。
斎藤方が勝利したものの、その後妙純は近江に攻め入った際、土一揆の襲撃により戦死、織田伊勢守家もこの影響を受けて没落したとのことようで、土岐氏の跡目争いは隣国を巻き込む大きなものだったようです。
朝倉氏も明応の政変時は政元に協力していたものの、船田合戦を通じて対立関係が変化した結果、消極的ながらも前将軍派となったのでしょうか。
政元はこの後、貞景と対立して出奔した朝倉景総(英林の四男で朝倉一族の年長者)を家臣として元景と名乗らせ、景冬の後継者で景総の婿でもあった敦賀郡司・朝倉景豊に謀叛を起こさせようとしたものの、文亀3年(1503)に教景(景冬の婿、後の宗滴)が貞景に密告したことにより阻止される、といった事件が起きています。
