永禄元年11月には義輝が三好長慶と和睦して入京、三好政権のもとで幕府が再興されますが、その後も永禄4年7月に六角義賢が細川晴元の次男晴之を擁して挙兵し河内の畠山高政と連合し挟撃を図るなど、不安定な情勢が続く最中、永禄3年5月の桶狭間合戦が起きるわけです。
信虎はその間も引き続き在京していますが、永禄5年または7年と見られる信玄書状には信虎の駿河帰国を尋ねるよう命じたものがあり、『言継卿記』では永禄8年から9年にかけてに信虎の姿が現れず、永禄10年正月の年始挨拶に訪問するも留守、同年4月24日には門前で信虎および伊勢備中守とすれ違ったことが記されているとのこと。
この頃の畿内政権は混乱を極めており、永禄7年7月に三好長慶が病没、その死は3年間秘密とされたものの、永禄8年5月に将軍義輝が殺害され、同年11月にはすでに三好三人衆と松永久秀が交戦し松永方が敗北、永禄9年7月に三人衆が入京、永禄10年10月には再び反三好勢を糾合した松永方が奈良において三好方と交戦し大仏殿炎上という状況。
武田氏の動きは、永禄8年10月に飯富虎昌ら義信派が密謀露見により処刑、義信が幽閉され夫人も駿河に送還、永禄10年3月には寿桂尼が死去、8月には家臣団に忠誠を誓わせる起請文が奉納されており、永禄11年12月から駿河侵攻が開始されています。
信虎は永禄7年頃から9年頃にかけて駿河に帰国していたと思われますが、このような状況でのことなので、再度の上洛は今川氏と無関係に行われたようです。信虎が武田家の京都雑掌として在京したという説はあながち間違いではないのかもしれません。
