・柴辻俊六編『武田信虎のすべて』より、丸島和洋「甲斐国追放後の武田信虎」
ずっと気になってた、信虎の在京時期と動向について。
『甲陽軍鑑』では永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦以後、次第に氏真との関係が悪化して駿河から追放されたとし、晴信に対して駿河出兵を提案する様子が描かれますが、これは武田家の駿河攻めを正当化するための脚色のようです。
『言継卿記』永禄元年正月四日条には年始の挨拶回りの際に「甲州武田入道」と会っていることや、三月十六日条で信虎に手紙を出したが不在であったことが記されていて、その後も永禄2年、3年、6年、6年と年始挨拶で信虎を訪問しており、以前から京都に邸宅を構えていたことが伺えるとのこと。
二人の交流は言継の養母が寿桂尼の妹であったためで、言継自身も弘治2年(1556)から3年にかけて半年ほど駿河に下向していますが、弘治3年2月25日に言継を招き開かれた連歌会には信虎ではなく子の信友(武田左京亮)が参加していることから、信虎はすでにこの頃に在京していた可能性があるとも。
そうすると、信虎は義元の生前、天文22年(1553)に三好長慶が将軍義輝を朽木へと追い落として畿内を制覇していた状況において、今川氏の支援のもと上洛し在京奉公を続けていたことになるわけで、桶狭間合戦に至る直接の原因はどうあれ、今川氏が上洛を志向していた可能性を示しているようにも感じます。
信虎の人柄を示す面白いエピソードとしては、永禄3年正月9日には22歳の菊亭晴季に17歳の末娘を嫁がせているのですが、信虎は婚儀がまとまらぬうちに菊亭宅に押しかけたらしく、その様子が狂歌に謡われています。
「むこいりを まだせぬ先の 舅入り きくていよりは たけた入道」
(「菊亭」と「聞く体」、「武田」と「猛けた」を掛けている)
