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ホリィ(新人)のことを語る

神山駿河入道周賢については、Googleブック検索で『政覚大僧正記』文明17年4月26日「赤松大膳大夫」政則の分国内薬師寺別当領の保全を依頼、その使者に「神山駿河守」とあります。他にも『山科家礼記』に文明2年12月7日備前居都庄遵行を神山駿河守に預く、とも。
『古事類苑』にも名前が挙がっているようですし、いわゆる故実家として赤松氏と付き合いがあったのでしょうか。

ともあれ、松島周一氏の論文によれば、浦上則宗と織田敏定は意気投合し、斯波義寛のために朝倉貞景から越前を取り戻そうと画策していたそうでて、近江の陣中においても赤松政則の陣営に斯波義寛と織田敏定が招かれており、両者が親密な関係にあったことが伺えるとのこと。
またこれに対して、朝倉氏寄りであった細川政元が不快を露わにし軍勢を帰国させたことで、将軍義材の元で六角の次は朝倉と考えていた彼らに越前遠征を躊躇わせたのではないかとのこと。

そして赤松政則への洞松院の輿入れが明応2年、その直後に明応の政変が起きたという流れですが、政変に至る背景としてこの赤松氏と斯波氏(織田氏)の関係、政変後に朝倉貞景が義材派になったことも合わせて興味深いです。