ちなみに『朝倉始末記』所収系図によると、織田敏定の母は朝倉孝景(英林)の祖父にあたる教景(心月)の娘、英林の孫である貞景の母が織田孫左衛門尉の娘で、英林の代には織田家とも縁組していたようです。織田孫左衛門が誰なのかは分かっていないようですが…。
あと『朝倉氏の家訓』には、英林六男の時景、七男の景儀が共に織田の家督を継いだとして、収録の『朝倉家伝記』の系図を見ると確かに六男のところに「孫七 叔海性波 集雲軒主還俗 織田家督」とあるのですが、Web上の情報では「織田庄を領した」とあります。
元々、尾張の織田氏は越前織田庄の劔神社の神官出身と言われていて、応永の乱の戦功による斯波氏の尾張守護補任に伴って移住したものと思われますが、越前にも織田氏が残っていたとすれば「織田家督」も間違いではない?
(後の信長の影響か、織田氏系図の混乱は尾張以後ですら素人にはさっぱり判断つかない状況ですが…。)
また松島周一氏『延徳三・四年の織田敏定と細川政元』によれば、斯波義寛は赤松政則に伴われる形で新将軍義澄のもとへ出仕したそうですが、その一方で駿河の今川氏親が細川政元の意を受け下向した叔父の伊勢盛時(後の早雲庵宗瑞)とともに堀越公方を攻めており、斯波氏の家臣甲斐氏が守護代を務めていた遠江はかつて今川氏領国であったため今川氏の侵攻により、越前と同様に厳しい状況に置かれたとあります。
しかし、後には政元の腹心赤沢宗益から信濃守護の小笠原氏に宛てて、斯波氏の遠江経略を支援するよう求めていることから、斯波氏は義澄政権に接近していたものと見られ、政元の死後、永正5年(1508)に大内義興・細川高国政権により足利義稙が将軍に復帰したことに伴い、遠江守護は今川氏親に与えられることになったとのこと。
一見、関連のない斯波武衛家の越前・尾張・遠江三ヶ国ですが、隣国の近江や美濃の情勢、幕府の思惑も絡んで、ただ単純に守護代層の抬頭によって実権を失った訳ではない、という話でしょうか。
