×人世に
○人生に
×コウレイシャノ
○高齢者の
お話しするにはログインしてください。
×人世に
○人生に
×コウレイシャノ
○高齢者の
【取り違え事件と文化資本】
所得の格差はいつの時代にもあるもので、それが取り違えの悲劇を深刻にしてはいる。しかしこの事件では、金銭としての所得以上に家庭環境が二人の人世に影響してしまっている。ここで言う家庭環境とは「教育熱心」などで、社会学者のP.ブルデューならば「文化資本」と呼ぶであろうような、所有者に社会的地位を与える文化的教養である。
所得格差だけであれば、所得再分配である程度はカバーできる。生活保護もその一環である。けれども文化資本となると、再分配は難しい。(中略)
文化資本の欠如が人生に深い影を落とす例としては、児童養護施…[全文を見る]
「コンスタンティヌスはやり手の実業家だったのだよ。キリスト教がのぼり調子だと見るや、単に勝ち馬に賭けたわけだ。コンスタンティヌスが太陽崇拝の異教徒をキリスト教へ改宗させた鮮やかな手並みに、いまも歴史学者たちは舌を巻いている。異教の象徴や暦や儀式を、キリスト教の発展途上の伝統と融合させ、双方が受け入れやすい、いわば混血の宗教を創り出した」
「ダ・ヴィンチ・コード」ダン・ブラウン
涙を流していたのは誰なのか。人形なのか、それとも人形遣いの吉田栄三なのか、それとも両方なのかは私にはわからない。涙は一瞬だけ光ってすぐに消えただろう。ほおっておいても、誰もいない部屋の中で、誰も見ていないときに人形が涙を流すことなどそれほど珍しくはないのかもしれないが、それでも舞台の上で、観客が見ている前で、人形遣いの技によってこのようなことが起こるなどということには、暗黒の中で年老いた中性子星が爆発して消えるのを目撃してしまうような恐怖があるのではないか。ほんのかすかに見えた人形の涙は、一瞬、舞台全体を白熱化し、瞬時にして元…[全文を見る]
もしわたしが、マシュウが欲しがっていた男の子だったら、今頃は大いに役立って、いろんな面で楽をさせてあげられたのにねぇ....
そう思うと、男の子だったら良かったのにって、どうしても思っちゃうの。
そうさのぅ、わしゃあなぁアン、1ダースの男の子よりもおまえにいてもらう方がいいよ。
いいかい?1ダースの男の子よりもだよ。
そうさのぅ、エイブリー奨学金を取ったのは男の子じゃなかったろ?
女の子さ、わしの女の子だよ。わしの自慢の女の子じゃないか。アンはわしの娘じゃ。
"Well now, I'd rather have you than a dozen boys, Anne,"
said Matthew patting her hand.
" Just remember that ― rather than a dozen boys. Well now,
I guess it wasn't a boy that took the Avery scholarship, was it?
it was a girl ― my girl ― my girl that I'm proud of."
(『赤毛のアン』)
彼があくまで誠実で自己をあざむかずにいられるもの、いわば彼の生活の核心をなしているものは、残らず人目を避けて行なわれる一方、彼が上辺を偽る方便、真実を隠そうがために引っかぶる仮面――例えば彼の銀行勤めだの、クラブの論争だの、例の『低級な人種』という警句だの、細君同伴の祝宴めぐりだのといったものは、残らずみんな公然なのだった。で彼は己れを以て他人を測って、目に見えるものは信用せず、人には誰にも、あたかも夜のとばりに蔽われるように秘密のとばりに蔽われて、その人の本当の、最も興味ある生活が営まれているのだと常々考えていた。各人の私生活というものは秘密のおかげで保っているのだが、恐らく一つにはそのせいもあって教養人があれほど神経質に、私行上の秘密を尊重しろと騒ぎ立てるのだろう。
「犬を連れた奥さん」チェーホフ
(世界各国の夏期休暇) オーストラリア・・・1ヶ月半 スペイン・・・1ヶ月 スウェーデン・・・年齢に応じて25日から32日 オーストリア・・・35日 フランス・・・5週間+労働時間が半分になる日が2週間 ポーランド・・・46日 ※10年以上働いている人は+10日 ドイツ・・・最低33日・最大37日 イタリア・・・最低32日・最大42日 ノルウェー・・・平日だけで25日 日本・・・5日 さて、どう思います? これこそガラパゴスでは? 働きすぎだとか議論する以前の問題だと僕は思います。
私の名前は高城 剛。住所不定、職業不明
親しい友人から、暴力と恐喝事件に遭っていたと、全てが終わってから打ち明けられた。また、別の友人は、難病を患いながら、最期までその心情を家族にも漏らさなかった。世間には、人に迷惑をかけてはならないという教えはあるが、苦しみの伝え方の方を知りたい。
(大島尚悟)
[観たい映画]
糸井 で、この間の『スラムドッグ$ミリオネア』。
堺 ぼく見てないんです。
糸井 あれも実は、『キサラギ』型なんですよ。
堺 へ~え!
糸井 織物だとすれば、縦糸はこう、横糸はこうっていうことを
すっごい知的なゲームとして完全に俯瞰で作っていて、
気の毒なインドの現実みたいなことを言わせない
何かスカッとした部分があった。
「俺はこんなこと言えた義理じゃない」
っていう監督の遠慮があるんですよ。
そこは清潔感があるんですよね。
あれ、『キサラギ』だと…[全文を見る]
選択式の客観問題に比べて、頭の良さを測るのに適当であると思われている記述式の問題では、遮眼帯をつけた馬さながらに、誤って思いこんでしまった解答の方向を軌道修正する機会もないままに、まっしぐらに誤答を書き続けてしまうような暴挙を、選択式の客観問題では、他の選択肢を視野に収めることで、避けることができる。むしろ自己を対象化し、自身の考え方を相対化する訓練として、選択式の客観問題はおおいに有効なのである。
(村上春樹超短篇小説案内/波瀬蘭)
手許にいちばん数多くあるのはエールフランス便に乗ったときの、機内食のカトラリーセット。フォーク、ナイフ、スプーンとどれも短か目で安っぽいものなのだが、プラスティックの柄の部分は、白地にフレンチブルーの流線のストライプ。きゃー、可愛いー、と食べ終わった途端にナプキンで拭いてジャケットのポケットにしまい込んだ。
エコノミークラスに乗ってはこんなことを繰り返し、いまでは半ダースぐらいは揃っている。ところがビジネスクラスで旅するようになると、これががっかり。普通のつまらない銀の食器。そしてエコノミークラスも9.11以来プラスティックのち…[全文を見る]
アメリカの大学生は、日本のオシャレな学生たちの憧れとは裏腹にまったく着るものに無頓着に見える。そのノンシャランスさが、たまらなくカッコよかった。学生たちの無頓着な佇まいが、漱石の作品の中の高等遊民たちを思い出させるのだ。
桜の花の嵐の下で、男たちは酒を酌み交わす。あるいは夜のカフェでコーヒーを飲みながら、延々と議論を繰り返す。
このような無為な時間は若い一時期にしか持つことが出来ない、ということに、ひとはずっと年老いてから気付く。実はこの無為な時間こそ、とても貴重な宝物だったのだ。
___小西康陽「ステンカラーのコートについて」
子どもの頃、夢はサラリーマンと書いて、「少年よ、大志を抱け」と先生に指導された。大志とは何か。ふと、そのことを思い出し「大志の抱き方」とインターネットで検索してみた。何も見つからなかった。
(大島尚悟)
希望はいいものだ。多分なによりもいいものだ。
そして、いいものはけっして死なない。
スティーブン・キング「刑務所のリタ・ヘイワース」
佐野君はダディさんが来ていることをまったく知らなかった。
楽屋に訪れた人たち、一人一人の方達との応対の最後に、ようやく二人は向かい合い握手を交わすことになった。
この瞬間がこの日の、予期せぬもうひとつのアンコールだった。
ダディさんと向き合ったとき、佐野君の目から光るものが流れ落ちていた。
言葉にならない何かがそこに行き交っていたのだ。
それを感じた僕はまた眠い目をこするふりをしようとしたが、今度はそれではすまなかった。
「人間にとって大事なことは、ふたつだけなんですよ」 「ふたつ?」 「<考えること>と<愛すること>です。このふたつだけです。そのほかのことは、どうでもいい」【石動戯作・天瀬啓介/美濃牛/殊能将之】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これ、めいたんていイスルギーが言うからこそ、イイんだよなあああ
殊能せんせー・・・
すべての良いものは、ゆっくりと時間をかけてつくられる。急いでいるときこそ、ゆっくりやらなくてはならない。
__「レール・デヴァガール」(リスボン)オーナーの一人、ジョゼ・ピニョ (「世界で最も美しい書店」 清水玲奈 より)
彼女は連帯を求めはしない。そして孤立を恐れない。むしろ僕の記憶のなかのデュラスは、連帯の可能性は孤(個)に徹することによってはじめて生まれると信じ、その確信に支えられて探求の道を歩み続けている (岩崎力「記憶のなかのデュラス」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さいきんつくづく「私たち」と名乗ることのできない自分に呆れ果てるのだけど
まあ、性分だから仕方ありませんな、我が強いのでwww
★一方の『ミケランジェロ』ですが、著者があとがきで書いておられるようにミケランジェロを書名に掲げた新書は実に、1939年に岩波新書の一冊として刊行された、羽仁五郎(はに・ごろう:1901-1983)さんの『ミケルアンヂェロ』以来のことのようです。奇しくもこの『ミケルアンヂェロ』が刊行された年にお生まれになったのが木下さんです。木下さんはミケランジェロを「持続する芸術家(サステイナブルなアーティスト)」と評します。成し遂げた仕事に満足せず、常に新しい仕事、新しい表現、新しい問いへと向かった生涯だったと。
★木下さんはこう書きます。「ミケランジェ…[全文を見る]
今週の本棚:鴻巣友季子・評 『さようなら、オレンジ』=岩城けい・著
http://mainichi.jp/feature/news/20130922ddm015070021000c.html
「 人が死にもの狂いで言語を求めるのは、肉体の生死のみならず、精神のそれに関わる時でもあるのだ。第二言語と格闘するハリネズミの痛切な言葉を引用する。「英語がこれほどまでに権力をもった現状において、この巨大な言葉の怪物のまえに、国力も経済力も持たない言語はひれ伏します。しかしながら……第一言語への絶対の信頼なしに、二番目の言葉を養うことはできません。そうして積み上げられた第二言語……に、新しい表現や価値観が生まれてもよいのではないでしょうか。どんなにみっともなく映っても、あのような嫌な笑い方の報いを受けるべきではありません」」
これは、よみたいとおもった