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私がこういうふうにしていられることについて
うらやましい、といわれることもある。
たしかに、恵まれていて、幸せなことだと思う。
もちろん、辛い苦しいときもあるし、
あきらめたこともいろいろあるし、
他人を羨むことも多々ある。
でも、結局は、恵まれているのだと思う。
ありがたい、のひとことにつきる。
恵まれていることは、こわいことでもある。
いつそれが失われるか、わからないからだ。
ゆえに、恵まれることを無意識に拒否する人もいる。
私もかつて、それをやったことがある。
でも、それをやってもべつに
ちっともいいことにはならない、
ということも学んだ。 <<
石井NP日記 http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20130607/
辻邦生さんの『外国文学の愉しみ』をあける
と、そうだ、忘れてたけど
お父様は琵琶演奏家でもあった
辻邦生
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E9%82%A6%E7%94%9F
「東京市本郷区駒込西片町に生まれる。父はジャーナリストで薩摩琵琶の伴奏家、母は鹿児島県の医家の出身。辻家の本籍地は山梨県東八代郡春日居町国府(現笛吹市)で、代々の医家。9月24日生まれだったことから、「くにお」と名付けられる」
「私が父の残した琵琶楽の幽玄に戻ってくるのは、それから三十年の歳月を要したが、そうした遍歴のおかげで、私には、日本も外国も、特別な愛惜をこめて慈しむことができるようになったのだった」
「現実はそういうものである」という学習は、現実批判、改革、自己防衛のための力になるのか、それとも葛藤回避や現実への適応のための価値観の内面化に結びつくのか、あるいはせっかくコストをかけて学習したゲームのルールを最大限に活用して可能な限り勝ち進もうという動機を生むのか。
父親の没義道(もぎどう)さとか、農村の暗さとか、社会の不合理とかではない。それへの怒りはむろんのことにしてもそのいやな感じはもっと根本のところに係わっていて、その根本の事実がいかにも理不尽であった。人はこのようにして死なねばならぬことがある。この事実はまだ少年といってよかった私には震撼的だった。少年の直覚は、こんなことはあってよいはずがない、許されてよいはずがないと叫んでいた。
「小さきものの死」 渡辺京二
ある晩、不思議な声を聞く。最初、女性の笑い声のように聞こえたが、泣き声だった。奇妙な泣き方だった。
声の主は、天草地方の農村から母親と一緒に療養所に運ばれてきた娘。2人とも既に極度に衰弱していたが、付き添って来た父親はすぐに去ってしまう。夜になって母の容体が悪化し、娘が泣き始めた。明け方までに2人とも亡くなった。
ファシズムと聞くと全体主義、ムソリーニ独裁やヒトラーのナチスが浮かぶ。「そういう、銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」
息苦しさ漂う社会の「空気」 辺見庸さんに聞く
毎日新聞 2013年05月09日 東京夕刊
http://mainichi.jp/feature/news/20130509dde012040020000c.html
ファシズムと聞くと全体主義、ムソリーニ独裁やヒトラーのナチスが浮かぶ。「そういう、銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」
息苦しさ漂う社会の「空気」 辺見庸さんに聞く
毎日新聞 2013年05月09日 東京夕刊
http://mainichi.jp/feature/news/20130509dde012040020000c.html
(略)しかし、治るばかりが能じゃないんですよ。そうでしょう、生きることが大事なんですから。
河合隼雄 [村上春樹、河合隼雄に会いにいく]
村上 人間は病んでいれば、だれにでも物語をつくる能力が、潜在的にはあるということなのでしょうか。
河合 それはむずかしいところで、人間はある意味では全員病人であると言えるし、またいわゆる病んでいる人であっても、それを表現するだけの力がないと形になってこないんです。病んでいる人の場合は、疲れとか恐ろしさとか、そういうのがダーッと出るばかりで、物語にまでなかなかなってこないということもあります。
村上 芸術家、クリエートする人間というのも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?
河合 も…[全文を見る]
国内総生産(GDP)が中国に抜かれたといっても、世界3位である。一人当たりGDPでは、中国よりも8倍以上高い上、世界でも上位20位以内に入っている。人口が5千万人を超えるような国で一人当たりGDPが日本ほど高い国は数少ない。しかし、これだけ所得が高いのに、私たちは豊かさを実感しない。「それなら、もう少し所得が減っても豊かさを実感できるような暮らし方をすべきではないか」と考えるのは自然だ。実際、私たちが幸福を感じるのは、所得からだけではない。豊かな人間関係をもっていることや健康であるということも幸福であるための重要なポイントである。その意味では、少し所得が下がっても、人間関係や健康状態をよくすることで、私たちはより幸福に生きていける。
――「豊かなのに苦しい」わけは 大竹文雄
必死にもがき、薄れる意識の中、木材につかまり黒い海の上に出て、辺りが静まり返った中、母を何度も何度も呼び続けました。わたしは近くの建物まで泳ぎ、今こうしてこの壇上に立っています。
(デジタル版から)
ぼくが文章を書くときは、確信犯の部分で書くから、みんながひっかきまわされた。そこまでぼくを分析できる批評家がいなかったんで、みんなどっかに引きずられて、どちらかといえば、ぼくが確信犯として映画を組織していくために書いた文章、あるいはぼくのリードに、みんながひっかかっちゃったところはあるでしょうね。これはぼく、あるいはぼくの作品を支持しようとした人もひっかかったし、それに反発した人もひっかかった、ということはいえるだろうと思うな。そういうことに関してきちんと書いてくれる批評家はいなかったから、どうしてもぼくが、ミスリードであるということはわかりながら、ミスリードをしなければならなかったという側面がある
『大島渚 1960』
聴覚には眠りがない。だからこそ、目覚ましの装置は耳に訴えるのだ。聴覚にとって、環境から離れることは不可能だ。音の景色というものが存在しないのは、そもそも景色が見えるものに対する距離を前提にしているからだ。音響に対して距離をとることができない。
生誕の前から、そして死の最後の瞬間まで、男も女も一瞬たりとも休みことなく音を聞いている。
音に対しては、自我の密閉性などありえない。音はじかに肉体に触れる。あたかも音を前に肉体は裸同然、皮膚をはぎ取られたかのようだ。耳よ、お前の包皮はどこにある?耳よ、おまえのまぶたはどこにある?耳よ、ド…[全文を見る]
86年のイギリス、カナダ合作“Murder by the book”は、クリスティー宅に編集者が訪れて『カーテン』の出版を要請していると、ポアロが現れ、「まだ起きていない犯罪の被害者と犯人を知っているが、その時期と動機がわからない。被害者は自分で、犯人はあなただ」と言う番外編的作品。51分の中編で、監督はローレンス・ゴードン・クラーク。ペギーアシュクロフトがクリスティー、イアン・ホルムがポアロを演じている。
(p.156『映画で読むアガサ・クリスティー』)
ある日突然スーツを着た人たちが高級車でやってきて、夢物語のような復興計画をたくさん話したことがありました。「これさえ実行できればすべてがよくなる。前よりももっと豊かになる。雇用も生まれて苦しい思いをしなくてすむ。あなたを助けたい」と言って豪華なお弁当を配った。……私たちが望む望まないにかかわらず、ここの住人ではない推進者の周到な計画にすべてを急がされたのはすごく悔しいことでした。
――志賀理江子ほか『螺旋海岸 notebook』
「休暇と友だちは人生においてもっとも素晴らしい」
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹
清遠のほうはといえば、下元に不敵な笑みを向けた。
「そう来なぁいかん。知的労働を買い叩く会社は大成しませんき」
そして誰にともなく喋りはじめた。
「まぁ地方にはありがちなことですけど、プランナーだのデザイナーだの、脳味噌を使(つこ)うたりセンスを使うたりする仕事は『元手がタダやき安い』と思うちゅう人間が多くて辟易しますわ。企画らぁ頭でちょっと考えるだけやろう、デザインらぁチョチョッと描くだけやろう、とねえ。知り合いのデザイン会社の社長がこぼしちょりましたけど、社章をデザインせえというような仕事で『ちゃっと描いたがでえいき二、三…[全文を見る]
くらしのことなら、戸倉先生は、もうずいぶんためこんだものねえ。たとえ先生が亡くなっても、あと奥さんとあなたがくらしてゆくのに、なんの不足もないわ。……だいたいあの先生の評論に、このごろ庶民庶民ということばがずいぶん多くなったわねえ。作家や評論家のかくものなかに、庶民とか大衆とかいう言葉がいやにふえてきたら、きっとそのくらしが庶民とかけはなれて豪勢なものになってきた証拠だとみていいようだわね
(山田風太郎『殺人喜劇MW』より)
高原さんは、片づけを「日常生活に支障をきたすほど散らかったとき、そのストレスを減らす方法」と定義する。「他人は散らかっているように見えても、住んでいる人がストレスを感じないのなら、その家は『片づいている』のです」
「(…)
ということになって、この話限りで私は『侍ジャイアンツ』の作監を実質的におりるような形になりました。あとはゲスト・キャラクターを作るだけで、各話作監にまかせて、蛮ちゃんの魔球が『巨人の星』なみにエスカレートしていくのを横目に見ながら、毎日プラモデル作りに励むことになってしまったのです。」
大塚康生「作画汗まみれ」(改訂最新版・文春文庫 p.223)
軽さと重みの同居する「プラモデル作り」というお言葉。