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勝手に引用のことを語る

聴覚には眠りがない。だからこそ、目覚ましの装置は耳に訴えるのだ。聴覚にとって、環境から離れることは不可能だ。音の景色というものが存在しないのは、そもそも景色が見えるものに対する距離を前提にしているからだ。音響に対して距離をとることができない。

生誕の前から、そして死の最後の瞬間まで、男も女も一瞬たりとも休みことなく音を聞いている。

音に対しては、自我の密閉性などありえない。音はじかに肉体に触れる。あたかも音を前に肉体は裸同然、皮膚をはぎ取られたかのようだ。耳よ、お前の包皮はどこにある?耳よ、おまえのまぶたはどこにある?耳よ、ドアは、鎧戸は、膜は、屋根はどこにある?

音は肉体に由来し、それを増幅する。音楽は、それがリズミカルに駆り立てるダンスから完全に分離することはない。それと同じように音を聴くことは、性交からも、「服従を強いる」胎教からも、子が親を慕うような言語的絆からもけっして切り離されることはない。

聞くこと、それは従うことだ。聴きとることをラテン語では、オバウディーレ〔obaudire〕と言う。このオバウディーレという言葉はフランス語に入って、従う オベイール 〔obeir〕という語形に派生した。

聞くこと、それは距離を置いて触れることだ。リズムは振動に結びつている。この点で、音楽は意図せずして、居並ぶ肉体に親近感をもたらす。

つまり、無限の受動性(不可視の強制的な受動)こそが人間の聴覚の根拠をなしているということだ。煎じ詰めればこうなる。耳にはまぶたがない。
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わたしは定期的にキニャールの文章をよまないと駄目なのかもってたまにおもうw
世の中が妙に喧しくてどうしようもないときには、古典とかそれに相当するものを読んで自分を立て直すとかする
「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」(定家卿)
じっさいに、キニャールはガリマール社を辞した