ぼくが文章を書くときは、確信犯の部分で書くから、みんながひっかきまわされた。そこまでぼくを分析できる批評家がいなかったんで、みんなどっかに引きずられて、どちらかといえば、ぼくが確信犯として映画を組織していくために書いた文章、あるいはぼくのリードに、みんながひっかかっちゃったところはあるでしょうね。これはぼく、あるいはぼくの作品を支持しようとした人もひっかかったし、それに反発した人もひっかかった、ということはいえるだろうと思うな。そういうことに関してきちんと書いてくれる批評家はいなかったから、どうしてもぼくが、ミスリードであるということはわかりながら、ミスリードをしなければならなかったという側面がある
『大島渚 1960』
勝手に引用のことを語る