「子供ならみんな可愛いわけはない、可愛い子は可愛い、可愛くない子は可愛くない」
「自分の子は自分の子であるかぎりにおいて可愛く思えるものだ」
「ところであなたのクラスで一番可愛いのはA子ちゃんで二番目はB子ちゃんで三番目はC子ちゃん(我が子はランク外)」
というたいへん残酷な三段論法の持ち主だった。
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母のことを語る
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祖母(東アジア離れした彫りの深い目鼻立ちと輪郭でマダム感たっぷり)と叔母(くりくりぱっちりの愛嬌ある顔でモテる系)に挟まれて、よくいえば上品なこけしみたいな地味顔の母は容姿に強いコンプレックスを抱き続け拗らせた結果いわゆる「キレイになる努力」を賤しいものとみなして全否定するようなところがあった。
そして少しでも自分の容姿に触れられると激怒する。
介護施設にお世話になり始めた頃、スタッフさんなどが打ち解けようと「おきれいな方ですね」的な社交辞令を言うとひどく荒れた。
わたくし自身の抱えるコンプレックスは多分に母の薫陶を受けたものだから、…[全文を見る]
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わたくしが幼いころカトリック聖歌657番「いつくしみふかき」をよく歌ってくれたのだけど
1番の最後の歌詞「こころの嘆きを包まず述べて などかはおろさぬ負える重荷を」の「重荷」のところをわたくしの名前に置き換えた改変バージョンだった。
嬉々として歌ってたけど「重荷=わたくし」は言葉遊びというより半ば本音だと子供なりに感じて愛とは重たいものであることよと学んだものであった
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20年くらい鎌倉彫のおけいこを続けていた。
オリジナリティはなくてもゆっくり丁寧に作業すれば塗りでたいていなんとかなる、たいそう母に合った趣味だった(本人の弁)。
その間に作ったたくさんのお盆や小皿、大作の重箱など作品の数々のうちいちばん気に入っていたものはここ何年も手つかずのまましまい込まれている。
暮れにふと思い立って探しだし、元旦に懐石盆を使ってみた。

あやうくみんなかびちゃうところだった。
本人ももったいないのとめんどうなのとで正月くらいにしか使おうとしなかった。
これからは実家においたまま出来る範囲で日の目を見させてしまおうと思う。
趣味ちがいすぎるのでたぶん母好みのやり方にはならないと思うけどね
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そうやって買った美しい食器は母の手で大切にしまいこまれ
わたくしは触ることも許されず別にわたくしの合格祝いに使われるというようなこともなく
それでもときおり取り出して眺めたり思い切って使ったりしたときに「○○大学の蓋向」という呼び名がついていたりした
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わたくしが大学受験するとき母は絶対浪人させないために、本命の試験の前に入学手続き期間が重なるようにしていくつか私大を受けろとわたくしに命じた。
受験する本人にはなぜかそこらへんについての決定権がないことになっていたのでおとなしく従った。
母は各大学のための入学金をプールして、わたくしが次の大学に合格して手続き不要になるとそれで食器を買う、を繰り返した。本命前に4校受けて全部受かったので都合4回。
「次貴女が○○受かったら××買うの」ととても楽しそうだった。
明らかに辻褄合わせに利用されていたのだけどそのおかげで実家のどこかに美しい食器があるからまあいいや。
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ももしきやふるき軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
百人一首しててこれが出てくるたびに、ぼろ家の軒下に股引が干してあるところが浮かんじゃうなにこれおかしいあははははとひとりで涙が出るほど笑っていた。
やられた。完全にうつっちゃってる。
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寂しくもないしとくだん嬉しくもないというのが本音ですが反応してくれるのは悪くないです。
子どもを生んたということ自体を忘れてしまったみたいで「やけに馴れ馴れしい知らない女」と思われてるっぽいのですが、そういうところもある意味母らしくて不思議にネガティヴな気持ちにはなりません。
母がわたしを忘れてもわたしは母を覚えているし、母の人となりはそういうのと関係なく損なわれてない気がするんですよね。
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昨日会いに行ったときに旅行中の写真を見せたら思いがけずちゃんと目を開いて見て「誰よ」って呟いた。
いやびっくりした。
覚えていらっしゃらないとは思いますがあなたの娘です。
と言ってみたけどそれは聞いてなかったみたい。
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当時60代半ばだった母に「ひとりなら泊められるから○月×日の△△便でシャルル・ド・ゴールまで来てね」と言ったら旅支度を手伝った父が半病人になるほど大騒ぎしたくせに、
機内で隣り合わせた見知らぬ紳士*の手助けで無事入国手続を終えた途端「すぐに娘と会えてしまったらなんか面白くない」と空港の探検を開始、
通りすがりの紳士**に助けられて非常用に教えておいた「公衆電話の使い方メモ」を片手に自宅に今着いたよコールをし、
迎えに来た娘を1時間待たせたあげく呼び出しを掛ける寸前に「あらもう来てたの」と言いながら颯爽と登場、
移動の電車の中ではポケットから…[全文を見る]
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大丈夫、乗り切られます。
うちの母ときたら60歳過ぎてエレベータにひとりで乗ったことすらなかったのですが
そんな母にわたしは(しばらくヨーロッパに住んだ時)「ひとりなら泊められるからちょっと遊びに来てねシャルル・ド・ゴール空港に迎えに行くわよ」と言ったら父を巻き込んで大騒ぎしたあげくほんとに来ましたよ。
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内弁慶で控えめに見えるので一見すると模範的な良妻賢母タイプだけど実際にはぜんぜん違う。
母の才能とか適性とか望みとかは、明らかにもっと別の方向に(おそらく表現芸術に)向かってる人だった。
でも家庭環境や受けた教育や特に戦後の経済状況が母にそれを許さなかったし
母自身も与えられた型に忠実にはまろうとしてその通りになったのだと思う。
そのへんの齟齬や葛藤がわたし自身の進路への干渉(というかほとんど妨害)に繋がったのだと今になるとわかる。
父は「一見地味な存在でありながらずば抜けて豊かな知性と感性と教養を持っている母」を自慢にしてるのだが
それってちょっとずるくない? とわたくしは思っている。
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兼 [修学旅行の思ひ出]
中学の東北3県・高校の京都奈良ともに「〇〇屋の△△を××個」的な詳細な買い物リストをごっそり渡され
僅かな自由時間はそれを探しまわることに費やされた。
ネットでお取り寄せとかなかった時代、娘はほぼ買い物要員認定。
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服やおもちゃも、キャラクターのついたものやパステルカラーのものなんかは母自身が嫌いという理由で買ってくれなかった。
服は紺や臙脂や深緑のクラシカルなワンピースばかり、自転車もキャラクターものとかじゃなく渋い緑色の。
当時はほかの子が羨ましくて内心泣きたいほどだったのだが(だから赤毛のアンの「ふくらんだ袖」のエピソードは痛いくらいわかるのだが)
大人になって写真を見直すと、自分だけ確かに浮いてるけどやけに素敵っぽい。
だから配偶者氏にアルバム見せるときなんかはしれっとして「お洒落っしょー?」と自慢することにしている。
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祖母がたいそう厳しくて母自身駄菓子的なものをまったく食べずに育ったためか
私にもスーパーで売っているようなふつうのお菓子は一切買おうとしなかった。
遠足のときの「お菓子は××円まで」に対しては「なにそれよくわからないわ」ってことで、舶来のクッキーなんかをぽんと缶ごと持たされていた。
先生に分けてあげる分には大変喜ばれたが当然同級生のお菓子交換の輪には入れず、遠足のたびに小さく孤立していたものだった。
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病気篇もある。
私「へっくしょん」
母「夜更かしするからだ。今日から読書禁止」
私「げほげほっ」
母「好き嫌いするからだ。そんな子は読書禁止」
私「…(おえー)」
母「吐く前に自分で洗面所行きなさいっ」
怒りながら病院連れて行って怒りながら嘔吐の片付けして怒りながら寝かしつけてくれました。
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私(園児)「転んだー」
母「なんて不注意な(ばしっ)」
私「痛いー」
母「痛くて当たり前だ(ばしっ)」
私「(痛さより理不尽さに)えーん」
母「泣くなみっともない(ばしばしっ)」
おかげで折ろうが縫おうが泣かない子に育ちましたが、大人になってから世間の一人っ子に対するイメージとのギャップに驚いたものです。
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「非常食だからといってまずいカンパンを食べなきゃならない理由がわからない」とのことで
実家では缶入りのクッキーを非常用に備蓄していた。
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いい子ちゃんな主人公は大嫌い。翳りがあったり渋かったりするのが好き。でもかっこよくなきゃイヤ。
カサブランカならコンラッド・ファイト。
ジェラール・フィリップよりジャン・マレーだそうです。
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眠る前に聞かせてくれるのは自作の「娘が不幸になる話」がメインだったが
それ以外だと高村光太郎とか宮沢賢治とか草野心平の詩だった。
でもすぐ飽きてしまうので母が眠ってしまうまで私が読んで聞かせていた。
ちなみに中原中也は「貧乏くさくてイヤ」立原道造は「キレイすぎてつまらない」とのことで読んでくれなかった。
ハッピーエンドの童話も全部「いい子がうまくいくばっかりで面白くない」とのことで却下された。
/母