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ホリィ(新人)のことを語る

赤松氏の元で養育された足利義澄の二人の遺児、義晴と義維兄弟については気になることがあります。
「戦国 三好一族」によると、義維が細川澄元によって阿波へ拉致されたと記されていることと、弟とされている義維の方が年上かもしれないという話です。

義維が播磨から阿波へ連れ出されたのは永正8年(1511)8月16日の船岡山での敗戦後と思われますが、「赤松一族 八人の素顔」収録の依藤保氏「晴政と置塩山城」には永正8年(1511)3月に近江から亡命してきた亀王丸の御所が造営されているとあります。
Wikipediaによれば、鷲尾隆康の日記「二水記」には義維が生まれたのは義澄…[全文を見る]

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細川高国の最期については、こないだチラ見した「尼崎市史」に色々書いてましたので後日まとめる予定です。

ところで島村蟹の伝説が残る野里川ですが、中津川と呼ばれるようになって、明治の淀川大改修で埋め立てられたそうです。
こちらのブログに分かりやすい地図がありました。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-58.html

今再び読み進めている「戦国 三好一族」には当時の地図も載せられてて興味深いです。

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最近はおはよう画像のためにフォトライフ遡るのも面倒になってきたので、「おはよう k-holy」でGoogle画像検索してるんですが…
まちがって「おはよう」だけで検索したら、こんなのが出てしまいました。

おはよう忍者隊ガッチャマン
http://www.ntv.co.jp/zip/gatchaman/

Wikipediaにも項目できてて、もう2年近くもやってるんですね…知らんかった

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黒くなった跡から着色されているのが面白い…って言ったら戦火に遭われたわけで語弊ありますけど…ともかく印象的でした。


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そんなこんなで、もう日が落ちかけたところで例のぐるぐるに遭遇したわけで、まああんなの見せられたら登らざるを得ないでしょう。

ぐるぐるの途中から見た舞洲工場。まあ登ったら渡らざるを得ないでしょう、というわけで…

うほっかっこいい!左奥にさりげなく大阪市章が付いてるの見えますか。

デザインしたのは「フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー」というウィーン出身の芸術家(故人)だそうです。
よく知らないけど、なんか便通良さそうな名前ですね。(すみません!)
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以前訪れた西島水門の対岸に、似たような形状の伝法水門があるという話だったので来てみたんですが、工事中で背後までは近づけず。

ここはまだ淀川沿いですが、大阪市漁業協同組合の建物がありました。

大阪市のWebサイトによれば、この辺は昔の伝法川の河口にあたり玄関口として繁栄したようです。
昭和28年に高潮対策で伝法川が埋め立てられて一部が漁港になったということです。

「克政」という魚料理屋も隣接していて、この日は休漁日ですが営業している様子でした。
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尼崎市の初島から、中島川を跨いで大阪市の中島までは自転車で渡ることができました。

中島大橋の尼崎側。ここからぐるっと回って東高洲橋を渡ると…

地図からだと自転車通れるかどうか分からなかったのですが、登り口がありました。

左側が東堀運河、右側が中島川。中島川の中間点辺りから大阪市に入ります。
中島からはいったん国道43号線まで戻り、伝法大橋から淀川を渡って対岸の酉島へ。

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真ん中が中島大橋、更に奥が湾岸線の中島川橋。

最終目的地は右奥のあれでしたが、陸地から行こうとすると意外と遠かった…。

この辺は化学工場が集まってるエリアで、更に奥が鉄工場など。
川沿いの道は一旦途切れますが、コンクリートの堤防を越えたら湾岸線のほぼ真下まで行けました。
多分立入禁止ではなかったと思う。自信はありませんが。
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昨日も自転車で尼崎と大阪の境目あたりをうろうろしてたんですが、初めて道路地図(10年以上前の)持って行ったので色々捗りました。
今更ですが、大阪の海辺うろつくなら地図持ってった方がいいと思う。スマホ?そんなのオーバースペックですから
でも寄り道しすぎて最終目的地着いたらもう日が暮れてた…。


初島から左門殿川と神崎川から分岐した中島川が交わる三角州あたり。向こう岸は中島。

この辺はセメント工場が多いようでした。ドサーっとな

中島川の真ん中にクレーン船が泊まってたんですが、洗濯物とか生活臭があって面白かった。
船内で寝泊まりしてはるんでしょうか。

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今日wikipediaから得た知識
写真貼っておいて内容ちゃんと読んでなかった。

>広島県福山市(日本の生産量の8割を生産)
>埼玉県越谷市(福山市に継ぐ生産量)
>広島県福山市では、期間限定品と銘打って、くわい焼酎「福山そだち」が売られている。

関東にもあるんですね。
くわいって進んで食べようと思うものでもない感じでしたが、このPDF見てちょっとびっくりしました。
http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/477627.pdf

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「ジャミロクワイ」って見るたびにこれが思い浮かびます

関東にもあるんかな?

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播磨統一のため幕府の権威を求めた浦上村宗と室町幕府再興の援軍を求めた細川高国が強く結びつく一方で、村宗と対立する別所村治は享禄3年(1530)に上洛して柳本賢治を訪ね、隣接する同じ赤松被官の依藤氏の討伐を要請します。
同年6月には柳本賢治が播磨へ侵攻し依藤氏の城を包囲しますが、同時に村宗は高国とともに大軍を率いて東上を開始、被官人の中村助三郎に夜襲させて賢治を討ち取る功績を上げました。
翌月には小寺村職の居城を落城させるとともに、別所氏や在田氏の拠点を次々と攻略し、遂に播磨のほぼ全域を支配下に収めましたがその勢いは止まらず、8月には摂津へ…[全文を見る]

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おはよう写真に愛用しているこの方、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)さん。
「敦賀」という地名の由来だとかで駅前にあった銅像です。

ツヌガアラシトは播磨風土記で伊和大神(大己貴命)と土地を争った天日槍命とも同一視されていて、但馬一宮の出石神社に祀られています。
安彦良和の「ナムジ」ではその名と伝説の通り、角の生えた新羅の王子・ヒボコとして描かれていて、主人公のナムジは出雲に攻め入ったヒボコを撃退、丹波の大江山へ退治に行くという筋書きになっていました。ナムジ面白いです。

出石神社の側には但馬山名氏の本拠、此隅山城跡もあるので一度じっくり見に行きたいところでもありますが、出石はJRから遠いんですよね。
一人で車で行くのはないし、同行だと山歩き不可なので…。

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渡邊大門先生の「備前 浦上氏」によると、柳本賢治ら丹波勢の挙兵に際し、大永6年(1526)11月に将軍義晴は赤松政村と赤松氏被官人、そして浦上村宗に対し出陣を促したものの、すぐには出陣しなかったとのこと。
翌年に義晴は近江朽木谷へと逃れますが、その後も村宗に対して政村を説得するよう御内書を送るとともに、龍野赤松氏の村秀に対しては村宗と相談するよう記しています。
その一方で、別所村治、小寺村職らに対しては早々に和睦を結んで忠節を尽くすよう促しているとのことで、山名氏の撃退後は再び東西の対立が続いており、政村を擁する村宗に対して、別所氏や小寺…[全文を見る]

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阿波勢が没落して再び高国が復権すると、以前から高国との仲が険悪になっていた将軍義稙は大永元年(1521)に淡路へと出奔、代わって高国からの要請を受けた浦上村宗の手引きによって義晴が上洛し、12代将軍となります。

義村を殺害し、幼主政村を擁立することで赤松氏の実権を掌握しようとした村宗ですが、播磨ではかつて義村に与同した被官人の反抗が始まります。
大永2年(1522)、淡路に逃れていた小寺村職(小寺則職の後継者)と浦上村国(浦上氏の一族だが村宗に背いた)が播磨に上陸、村宗は別所村治(則治の孫)と争って三木城を攻撃しますが敗退、別所氏と小寺氏は反…[全文を見る]

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[意味不明]
自分が未婚なら求婚する → 自分が既婚なら離婚する
これや…!!って思ったけど、僕は既婚なので使ってはいけない!!

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なお、「西宮市史」には中央の抗争に巻き込まれた摂津の事情が分析されていました。
寺社本所領の乱立による土地の細分化に伴い、武家不入の特権を盾にとった惣村の武装と自立化が進んでいたため、守護代や国衆は郷民の協力を得られず、たとえ実力行使により鎮圧できても背景に強力な政治権力がないと永続できないことから、勢力が確立できなかったと。
「瓦林政頼記」には「ナタノ五郷ハ、本ハ本所領ニテ、守護代ニモ随カワス、侍数七八百人モアリテ、自然ト勢揃スル時ハ三四千人モアル在所也」とあるそうです。

また、細川氏では四国(阿波・讃岐)で封建支配が徹底していて武力に優れたため、これが召されては摂津・和泉で戦って一部の国衆がそれに従うという形となり、現地の住民にとっても利益がなく、国衆の被官となることはあっても一家の総力を挙げて奉仕するものではなかったとのことです。

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今谷明先生の「戦国 三好一族」も参照しつつ、瓦林正頼の続きを。

鷹尾城を追われて伊丹に落ち延びた瓦林正頼ですが、船岡山の合戦で高国方が勝利した後に鷹尾城を回復し、永正13年(1516)、後に三好長慶やその亡き後の三好氏を支えた篠原長房が居城としたことでも知られる、越水城を築きました。
(正頼は教養に長けた人物だったようで、この越水城築城の際に連歌会を開いたと伝わっており、宗祇の「新撰菟玖波集」にも正頼の句「見すしらす成て恨もたゆる世に くす葉は風ふくあきのやまさと」が選ばれているそうです。)

その後、足利義尹・高国との連合政権で十年に渡り…[全文を見る]

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ウィンガル・ジーといえばメッキ仕様のハイ・シャルタット専用機とか出てましたねえ。
ちなみに、うちの実家には今も青く塗った1/100アゾルバが飾ってあります。
作中の扱いは雑魚でしたが、デザイン的にはプロマキスが一番好きでした。
ガリアンっていうとあの足音(?)が印象に残ってます。あー懐かしい。