id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

赤松氏の元で養育された足利義澄の二人の遺児、義晴と義維兄弟については気になることがあります。
「戦国 三好一族」によると、義維が細川澄元によって阿波へ拉致されたと記されていることと、弟とされている義維の方が年上かもしれないという話です。

義維が播磨から阿波へ連れ出されたのは永正8年(1511)8月16日の船岡山での敗戦後と思われますが、「赤松一族 八人の素顔」収録の依藤保氏「晴政と置塩山城」には永正8年(1511)3月に近江から亡命してきた亀王丸の御所が造営されているとあります。
Wikipediaによれば、鷲尾隆康の日記「二水記」には義維が生まれたのは義澄の播磨下向時との旨記されているほか、「公方両将記」という書物に「(永正)八年、三月の比、斯(岡山)にて嫡男の御儲あり。義澄卿は若君を御同道にて、密に播州へ御下向あり、彼所の国守赤松を頼ませ給ふ。斯にしばらく御座の間に次男の若君御誕生有ければ、即ち此若君を赤松に御預置給ふ。義晴と申けるは此若君の御事なり」とあるようです。
合わせて考えると、永正8年(1511)3月に造営された置塩館の御所で養育された亀王丸とは義維のことで、後に大永元年(1521)高国が淡路へ出奔した義稙に代わって義晴を擁立したのは、兄の義維がすでに澄元方によって連れ去られていたためと思えてなりません。

Wikipediaにはこの他、平島公方側の史料には義維が義澄の長子であること、高国が義晴を将軍にするため兄弟順を偽ったことが記されているとあります。
「出典不十分」「独自研究」との注意書きが付けられてますが、この辺りを指しているのでしょうか。
ともあれ、義維と義晴の兄弟順に関しては当時から疑義が提示されていることは間違いないです。

いつか阿南市立阿波公方・民俗資料館と、那賀川町史編さん室編「平島公方資料集」にも当たってみたいです。