阿波勢が没落して再び高国が復権すると、以前から高国との仲が険悪になっていた将軍義稙は大永元年(1521)に淡路へと出奔、代わって高国からの要請を受けた浦上村宗の手引きによって義晴が上洛し、12代将軍となります。
義村を殺害し、幼主政村を擁立することで赤松氏の実権を掌握しようとした村宗ですが、播磨ではかつて義村に与同した被官人の反抗が始まります。
大永2年(1522)、淡路に逃れていた小寺村職(小寺則職の後継者)と浦上村国(浦上氏の一族だが村宗に背いた)が播磨に上陸、村宗は別所村治(則治の孫)と争って三木城を攻撃しますが敗退、別所氏と小寺氏は反攻により播磨国の半分を抑えます。
しかし、小寺氏らに呼応して但馬から進出していた山名誠豊の軍勢が播磨へ侵攻を開始したため、村宗は小寺氏と急遽和睦し、大永3年(1523)10月の書写山の戦いでなんとか山名氏を撃退しました。
一方、中央では大永6年(1526)に些細な人足同士のいざこざが元で、細川尹賢(高国の弟)が高国方の有力被官である香西元盛を高国に謀殺させたことをきっかけとして、丹波に勢力を持つ元盛の義兄・波多野稙通と元盛の実弟・柳本賢治が阿波勢と示し合わせて謀反を起こします。
丹波守護代・内藤国貞までもが離反したことで幕府軍は敗走し、三好勝長・政長ら阿波勢も堺から上陸して神崎川以南の四郡を制圧、翌大永7年(1527)には柳本賢治率いる丹波勢によって山崎城が陥落し摂津の国人等の大半が降伏、幕府軍は桂川の決戦でも阿波・丹波連合軍に敗れ、高国は将軍義晴と共に近江へと逃れました。
この時に幕府の統治機構を担う評定衆や奉行人が近江に出奔、室町幕府が事実上崩壊した一方で、三好之長の嫡孫・元長が細川澄元の遺児・六郎(後の晴元)とともに堺に上陸、澄元によって阿波に連れ去られていた前将軍義澄のもう一人の遺児・義維を義晴に代わって将軍に擁立し、義稙に伴って淡路に逃れていた奉行人とともに幕府を開いたというのが、今谷明先生が提唱した「堺幕府」論です。
