渡邊大門先生の「備前 浦上氏」によると、柳本賢治ら丹波勢の挙兵に際し、大永6年(1526)11月に将軍義晴は赤松政村と赤松氏被官人、そして浦上村宗に対し出陣を促したものの、すぐには出陣しなかったとのこと。
翌年に義晴は近江朽木谷へと逃れますが、その後も村宗に対して政村を説得するよう御内書を送るとともに、龍野赤松氏の村秀に対しては村宗と相談するよう記しています。
その一方で、別所村治、小寺村職らに対しては早々に和睦を結んで忠節を尽くすよう促しているとのことで、山名氏の撃退後は再び東西の対立が続いており、政村を擁する村宗に対して、別所氏や小寺氏らかつての赤松被官人は自立し始めていたようです。
(村宗が守護職の証である白傘袋・毛氈鞍覆の使用を許可されるなど室町幕府の権威を背景としたのに対して、別所村治は堺幕府の晴元方に接近していったようです。)
大永7年(1527)9月には三好元長が高国方の伊丹元扶を攻めた隙を突いて、若狭守護武田元光や近江守護六角定頼、それに越前の朝倉教景の援軍を受けて義晴が入京しますが、11月の京都西院での堺幕府方との合戦に敗れ、大永8年(1528)5月には高国が近江永源寺へ、義晴が朽木谷へと逃れています。
こうして京都・摂津・河内・和泉はほぼ堺幕府方が掌握したものの、「戦国 三好一族」によれば、内部では柳本賢治ら丹波勢と三好元長ら阿波勢の対立が生じており、大永8年(1528)8月に阿波へ帰国した元長に代わって、之長の甥の政長が晴元の後見として阿波勢を率いることになったとのことです。
一方で、高国は近江へと逃亡した後も伊賀仁木氏、伊勢北畠氏、越前朝倉氏、また出雲尼子氏と諸国を巡り助力を要請するも容れられず、享禄2年(1529)9月には村宗の本拠三石城に訪れました。
同年11月には政村が英賀津に新館を造営、独立して居住することを認められており、村宗が高国を擁して上洛の準備を進めていたことが伺えます。
ようやくここまで来ました。いよいよ次回「その時」がやってまいります(笑)
