今谷明先生の「戦国 三好一族」も参照しつつ、瓦林正頼の続きを。
鷹尾城を追われて伊丹に落ち延びた瓦林正頼ですが、船岡山の合戦で高国方が勝利した後に鷹尾城を回復し、永正13年(1516)、後に三好長慶やその亡き後の三好氏を支えた篠原長房が居城としたことでも知られる、越水城を築きました。
(正頼は教養に長けた人物だったようで、この越水城築城の際に連歌会を開いたと伝わっており、宗祇の「新撰菟玖波集」にも正頼の句「見すしらす成て恨もたゆる世に くす葉は風ふくあきのやまさと」が選ばれているそうです。)
その後、足利義尹・高国との連合政権で十年に渡り在京した大内義興が永正15年(1518)に帰国したことから、三好之長ら阿波勢を主力とする澄元派が再び反撃を開始、永正16年(1519)末から翌年の2月に渡り、越水城を一万の軍勢で包囲します。
澄元方は高国方の浦上村宗が赤松義村と衝突していて背後を脅かされる恐れがなかったことが幸いし、逆に高国方は京都における土一揆の蜂起により澄元への防戦どころではなくなったこともあって、兵糧も苦しくなった正頼は和議を申し込んで開城、和泉へと逃れました。
高国方は防衛線を後退させるも支えきれず京都へ撤退、近江に亡命するよう将軍義稙に薦めるも拒否された高国は園城寺へと逃れ、伊丹城で病床にあった澄元の名代として三好之長が上洛したことにより、澄元が細川京兆家の家督を継ぎます。
しかし、その僅か3ヶ月後には再び高国が近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正らと呼応して京都へ攻め上り、等持寺での戦いに敗れた三好之長は自害、伊丹城で敗報を聞いた澄元は阿波に戻りますが、その後勝瑞城にて32歳の若さで死去したということです。
(今谷先生によれば、澄元は赤松氏の元にいた足利義澄の二人の遺児の弟、後の義維を阿波へ拉致したとのことですが、おそらくこの時ではないかと思います。)
播磨・淡路と京都を結ぶ交通の要衝である西摂にあって高国方を貫いた瓦林正頼でしたが、永正17年(1520)10月、澄元方へ通じたという疑いで高国の命により京都で切腹させられます。
昭和34年発行の「西宮市史」によると、三条西実隆は対馬入道宗芸(正頼)の死にあたって「洛中にことしは種々の大はやし河原はやしぞ興はさめけり」(「再昌草」)との狂歌を詠んでいるとのことです。
正頼の子が取り立てられているところから、どうも疑いは高国の誤解だったようで、後に浦上村宗が高国方として摂津で暴れ回りますが、正頼が生きていれば共に活躍したんじゃないかと思うと残念ですね。
