播磨統一のため幕府の権威を求めた浦上村宗と室町幕府再興の援軍を求めた細川高国が強く結びつく一方で、村宗と対立する別所村治は享禄3年(1530)に上洛して柳本賢治を訪ね、隣接する同じ赤松被官の依藤氏の討伐を要請します。
同年6月には柳本賢治が播磨へ侵攻し依藤氏の城を包囲しますが、同時に村宗は高国とともに大軍を率いて東上を開始、被官人の中村助三郎に夜襲させて賢治を討ち取る功績を上げました。
翌月には小寺村職の居城を落城させるとともに、別所氏や在田氏の拠点を次々と攻略し、遂に播磨のほぼ全域を支配下に収めましたがその勢いは止まらず、8月には摂津へ進出、かつて永正16~17年に澄元が布陣した神呪寺に着陣しました。
晴元方は薬師寺国盛を富松城に派遣して防衛しますが翌9月21日に陥落、11月には丹波の高国方残党・内藤彦七が東山の将軍地蔵山に城を築いて蜂起し、戦線が西摂と京都に分かれたことで晴元方は苦境に陥ります。
11月6日に大物城、翌享禄4年(1531)2月末に伊丹城、3月6日に北摂最大の要衝である池田城までもが開城、内藤彦七と小競り合いを繰り返していた晴元方の木沢長政も何処ともなく姿をくらましてしまい、高国方が京都奪還を果たしました。
晴元方も手をこまねいていた訳ではなく、2月には謀反の疑いをかけられ阿波へ帰国していた三好元長を再び担ぎ出し、3月25日には阿波守護・細川持賢からの援軍も堺に到着します。
神崎川を渡って欠郡に侵入、住吉郡の勝間に陣を構えた村宗に対して、元長は襲撃を掛けて天王寺まで押し返すことに成功しました。
そして享禄4年(1531)6月、村宗から後詰を任され摂津神呪寺に着陣していた政村の元に、晴元の陣営から裏切りの誘いが届きます。
いよいよ「その時」がやって参ります。6月4日、元長は高国軍に攻めかかり、敗勢が濃くなった村宗の軍勢に追い打ちをかけるように、明石修理亮を先陣として密かに内応していた政村軍が急襲、高国方は総崩れとなりました。
追い立てられた高国方は野里の渡しで政村被官に襲撃され、数千にも及ぶ兵が野里川で溺死、乱戦の中で和泉守護細川澄賢、伊丹国扶、瓦林日向守、波々伯部兵庫助らが戦死、村宗もまた重臣の島村弾正左衛門と共に敗死しました。
なお「細川両家記」によれば、島村弾正左衛門は敵の1人と組み付いて入水、その後野里川では武者の顔をした蟹が捕れるようになり、誰ともなく「島村蟹」と呼ぶようになったということです。
