一巡目読了しました。
天野先生の三好長慶や松永久秀への評価については以前から講演でも伺っていたので、驚くほどのことはなかったんですが、領国支配体制や家臣構成は初めて知ることが多く勉強になりました。
一番読み応えがあったのは、三好政権がいかにして足利将軍家を超越しようとしたのかというところで、まさに信長の先駆けとなった事例の解説です。
今谷明氏は義輝をはじめ幕府を近江へと追いやったことを「栄光の5年間」として、幕府との和睦を三好政権の後退と評価しましたが、天野先生は反対に、和睦以後がまさに足利家の権威に挑戦した時期だったと説明してい…[全文を見る]
三好宗家としての政務を芥川山城の義興に任せ、自身は摂津・河内・和泉・大和の全てに通じる飯盛山城で天下を睥睨するという体制で、時には大和の松永久秀をフォローすることもあったようです。
これは他の分国でも同様で、三好政権はある地方で敗れても分国の力を結集して逆襲する展開が何度か見られますが、それも水運の要衝を掌握したことで機動力を活かした戦略が可能だったからでしょうか。
あと面白いのは飯盛山城の周囲を固める城主にキリシタンが多かったことで、深野池の周辺はキリシタンの聖地として発展しており、宣教師の記録にも河内の様子が多く描かれているそうです。
松永久秀も自身は法華宗と関わりが深く後に京都で宣教師追放運動を主導しますが、家臣には清原枝賢や結城進斎ら高名なキリシタン武将がいました。高山右近の父・友照も当時は久秀の麾下に属しています。
長らく愛用してたテキストエディタPeggyが気付いたら販売終了になってた…。
http://www.anchorsystems.jp/
仕事用にはいい加減乗り換えなきゃいかんとは思ってたんで良い機会ですが、普通に文章書くのどうしようかなぁと。
今更秀丸に戻るってのも微妙だし、文章に特化するならMarkdownエディタの方がいいかも…?
永禄3年に長慶は三好宗家の家督とともに畿内の政庁・芥川山城を嫡子義興に譲って、河内の飯盛山城へと移りましたが、この城は麓に深野池が広がり、大和川水系を下って渡辺津から大阪湾に出ることができ、尼崎、兵庫津、堺といった大阪湾岸の都市を拠点とする三好政権にとって格好の居城だったようです。
あえて麓に城下町を作らず政治と経済の機能を分担し、京都に本寺の本能寺、尼崎に本興寺、堺に顕本寺、兵庫津に久遠寺、更に淡路の妙勝寺、備前牛窓の本蓮寺、備後尾道の妙宣寺、讃岐宇多津の本妙寺、阿波撫養の安立寺、果ては種子島の本源寺と、流通経路に当たる港町に教線を延ばした法華宗日隆門流を保護することで、これらの都市を経済基盤としたとのこと。
沿岸部に限らず、惣中など自律的な都市共同体を信仰の繋がりを利用して掌握しようとしたのが三好政権の特徴ですが、それが信長上洛時の崩壊の早さにも繋がったのでしょうか。
関ヶ原ウォーランドにて

大谷刑部の貴重な切腹シーン

湯浅五助

そして藤堂仁右衛門
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適当なキーワードが思いつかない写真。生駒山の山際に近い八尾市神立あたりで。


「このおく」って書いてますが、さすがに用もないのにここに踏み入るのは躊躇われました。
もうちょっとだけ続くんじゃ。
同じく崇伝が再興した河内の南禅寺派で、常光寺の兄弟寺とされている真観寺にも立ち寄ってきました。
あの畠山義就の祖父畠山満家の発願で、叔父にあたる南禅寺金地院の大業徳基が開山したそうです。

ここは何が目当てかというと…


三好長慶と義継の墓があるのです。
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「ワールドカップ」って聞いて、ワールド級のカップ?と妄想する程度のわたしですが、これには笑った。ビッグデータってこういうことだったの…
http://www.asahi.com/worldcup/2014/special/chart/

ゴールの瞬間

まだ全然途中ですが、長江正一氏、今谷明氏に続くまとめ本として意気込んで書かれたというだけあって、三好政権「再評価」の先の段階に到達したと言っても良い内容です。
「信長の先駆者」との評価を聞くことがありますが、編纂物による先入観を排して一次史料から人物像を明らかにする姿勢が徹底されており、具体的にどのような点が先駆者なのかがよく分かります。
付属の年表も一般向けとしてはあり得ないくらい詳しいし、人名索引があるのもありがたいです。
松永久秀の来歴や家臣団についても結構多く書かれているので、久秀に興味ある方にもおすすめです。
個人的に…[全文を見る]
常光寺の特別展示では、常光寺が所蔵する禁制や書状類が展示されていました。
八尾の戦いで長宗我部盛親率いる大坂方の軍勢と交戦した藤堂軍が首実検を行ったといわれる床板が「血天井」として有名ですが、400年も経ってるしよく分かりませんでした。
常光寺は幕府の外交僧として有名な以心崇伝が、同じく河内の真観寺とともに住持を兼職したという南禅寺派の寺院で、そのような関係から藤堂家と徳川家を繋ぐ役割も担っていたようです。
藤堂高虎と八尾の戦いで戦死した重臣六人の位牌もあり、藤堂家による法要が定期的に行われています。(なお藤堂家と大坂の陣戦死者達の…[全文を見る]
一見なんてことない排水路のようですが…


こういう物が残ってるところを見ると、昔は小舟が通れるくらい幅が広かったのかなぁと。

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今直面している問題
日曜に手首から肘にかけて日に焼けて真っ赤になってたのが、ただれたようになってきてヒリヒリと痛むようになりました。
これまでうん十年生きてきて、真夏の炎天下に帽子も被らず袖なしシャツ&短パン&サンダルでぶらぶらして平気だったし、もちろん日焼け止めなんて一度も塗ったことなかったのに。
どうも昨年あたりから自分の肌が思いがけない反応をするようになってて、これまで通り考えなしに行動できなくなってきてつらい。運動能力は低くても特別なメンテナンス不要なのが自分の一番の取り柄だと思ってたので。
身体が衰えたからか、環境が変わったからか、両方なのか、原因はよく分かりませんが…。
歴史民俗資料館を見てから、お昼頃に二度目の常光寺へ。


僕の中では八尾の戦いで藤堂家が籠った寺として有名でしたが、一般的には河内音頭の発祥地として有名らしいです。

近所の永寿堂さんにて購入したわらび餅を、境内でむさぼり食べました。
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八尾空港あたりをぶらついた後は、久宝寺方面へ顕証寺とその寺内町をぶらつきに。
久宝寺といえば昔操車場があって、小学生の頃ポケットカメラ持って興奮しながらEF15電気機関車(茶色いやつ)を撮ってたのを思い出します。いつの間にか再開発されて影も形もなくなってましたが…。

こんな感じで江戸時代は環濠に囲まれた町だったんですが、その名残の水路やら碁盤状の道路が今も残っています。


顕証寺は蓮如上人が建立して、後に子の蓮淳が住持した寺で、いわば河内の本願寺布教の一大拠点となった場所です。
到着したのはちょうど7時、時鐘が鳴り響いてました。そんで朝…[全文を見る]
八尾空港はタイミング悪く閉門してました。早すぎた。


八尾空港といえばオスプレイで話題になりましたが、そもそも前身が京阪神地区の防衛拠点を担った陸軍八尾大正飛行場という話です。
そんな経緯で今も陸自の中部方面航空隊が駐屯してます。(地下鉄谷町線の終点が八尾南なのもそのためということに、今回気付きました)
この時も早朝からヘリがホバリングしてました。

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この辺の写真は、八尾空港の北側あたりにある木ノ本にて。


車では通るのが難しそうな道幅で、ところどころ袋小路になってたりして、自転車でぶらつくのが面白かったです。
この辺に限らず八尾は平野川の灌漑用水路らしい小川やら疎水が網の目のように張り巡らされていて、江戸時代には柏原船という大坂と河内を結ぶ水運が盛んだったそうです。
ところどころ大きな屋敷があったりするのも、その名残でしょうか。

積み下ろし場の跡。
朝は4時過ぎから自転車でぶらぶら…

八尾は聖徳太子ゆかりの史跡が多いですが、物部氏の本拠地でもあるので、いうたら侵略者なわけですよ。

ここも多分そうで、布都大神を祀ってます。

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おはようございます(寝落ちしてた)



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常光寺の「大坂夏の陣 甦る八尾の戦い」のイベント告知看板

門前の佇まいもグッと来ましたが…

なんかゆるい感じの戦いが

高虎…?