三好宗家としての政務を芥川山城の義興に任せ、自身は摂津・河内・和泉・大和の全てに通じる飯盛山城で天下を睥睨するという体制で、時には大和の松永久秀をフォローすることもあったようです。
これは他の分国でも同様で、三好政権はある地方で敗れても分国の力を結集して逆襲する展開が何度か見られますが、それも水運の要衝を掌握したことで機動力を活かした戦略が可能だったからでしょうか。
あと面白いのは飯盛山城の周囲を固める城主にキリシタンが多かったことで、深野池の周辺はキリシタンの聖地として発展しており、宣教師の記録にも河内の様子が多く描かれているそうです。
松永久秀も自身は法華宗と関わりが深く後に京都で宣教師追放運動を主導しますが、家臣には清原枝賢や結城進斎ら高名なキリシタン武将がいました。高山右近の父・友照も当時は久秀の麾下に属しています。
