汚い字のメモからの復元なのでどっか間違いあるかもしれませんが、年次不明九月十一日、武田四郎次郎と中村某宛の村重書状より
>跡勢在之者、陣取ニ、早々孫一入手之衆、御同道候て
>(中略)
>孫一入も、大坂より夕ニ者、此方へ可被越候 必々奉待候
とのことで、切迫した状況を訴える内容なので多分天正7年の9月だと思いますが、有岡城への援軍にはみんな大好き雑賀の孫一が参加していたようです。
あと最近確認されたという道薫名義で相国寺光源院宛の書状が展示されてたんですが、南条氏が領した伯耆国内の寺領の確保に村重が尽力している内容がありました。
こ…[全文を見る]
今日は伊丹までこれ見に行ってきました。

人物紹介パネルの他にも、隣の尼崎市にある本興寺、長遠寺所蔵の禁制類や有岡時から尼崎城へ移った後の村重書状など、翻刻と訳文がパネル展示されてて良かったです。
軍師官兵衛のキーワード投稿とか見ても、逃亡とかトンズラとか言われてますが、最近の研究では嫡子が篭る尼崎城から本願寺、毛利氏と連絡を取っていて、戦況打開のための行動であることが明らかとなっているとのこと。

来週は三好氏の研究で有名な天野先生の講演があるそうで…行けなくて残念

村重人形
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武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) - k-holyの史跡巡りメモ

http://amago.hatenablog.com/entry/2014/05/25/121222
わざわざ、さくさくのカツをしにゃしにゃにするなんてアホじゃね?
そんなふうに考えていた時期が俺にもありました
