汚い字のメモからの復元なのでどっか間違いあるかもしれませんが、年次不明九月十一日、武田四郎次郎と中村某宛の村重書状より
>跡勢在之者、陣取ニ、早々孫一入手之衆、御同道候て
>(中略)
>孫一入も、大坂より夕ニ者、此方へ可被越候 必々奉待候
とのことで、切迫した状況を訴える内容なので多分天正7年の9月だと思いますが、有岡城への援軍にはみんな大好き雑賀の孫一が参加していたようです。
あと最近確認されたという道薫名義で相国寺光源院宛の書状が展示されてたんですが、南条氏が領した伯耆国内の寺領の確保に村重が尽力している内容がありました。
この天正11年11月12日付の官兵衛から村重宛書状の内容と対になるものかな?
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131202/wlf13120219550023-n1.htm
嫡男の村次は賤ヶ岳の合戦で負傷したため家督を継がず相国寺に入ったという話が、肥後細川藩に仕えたという村次次男の荒木村常改め細田村完の子孫が伝える系図に掲載されているそうで。
「いたみ官兵衛プロジェクト」の掲示板なんですが、なかなか濃い話が出ています。
http://www.itami-kanbee.com/murashige.html
