審判の日 悔悛
186
彼が、柳眉を寄せた。
「違う? 彼から距離をとっておきたかったんじゃない? どっちに転んでもいいように」
「お見通しっていうわけ?」
「ミズキさんの考えることはわかるよ」
そう、なのだ。私には、彼の考えることは予測できた。それは、でも、彼が私に考えさせようとするからだ。
「ねえ、あの、嫌味とか皮肉とか拒絶とか、そういうんじゃなくて真面目に言うんだけど、ミズキさんだったら、私みたいな女じゃなくて、優秀な遺伝子もった女性と結婚して子孫にその能力を継承していったほうがいいんじゃないかなあ。もったいないよ」
も…[全文を見る]
審判の日 悔悛
185
「ミズキさん?」
「気持ち悪がられるのは承知で口にするけど、たしかに僕は、君に関してはオカシイ。もともとそういう嗜好はあった。それは思春期くらいから自覚してたし、抑制もしてきた。けど、今はそれを抑えきれてない」
「私……」
彼はそこで顔を背けた。
それから、また真珠をひと粒その指で挟みあげた。
「ごめんね。やっぱり幾つか傷がついてる」
掌で転がされても、私には目を凝らさないかぎり判別がつかなかった。というより、その程度は気にならない。そう口にして彼が楽になるかわからなくて。
「ごめんね……」
泣き声のように…[全文を見る]
審判の日 悔悛
184
「ちがっ」
「なにが違う?」
両肩を掴まれて揺すぶられ、自分の身体が不安定に傾いで椅子にぶつかっていた。
「ちがう、そうじゃ、なくてっ」
目を合わせようとするのに、無駄だった。身長差は如何ともしがたいし、私自身の視線も定まっていなかった。激昂する相手の勢いに流されては駄目だと思うのに、声が上擦って、身を竦めていた。
「そんなに浅倉が大事なら、なんでここに来たっ」
「私、ミズキさんが心配で」
声をあげるのには、私の喉は細すぎた。
「僕が浅倉に手をかけないか不安だっただけだろう?」
「そんなこと、思ってない」
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審判の日 悔悛
183
顔が見えないことに感謝するなんて間違ってると思いながら、私は黙っていた。どうこたえても、いい結果は生まないような気がした。いや、そうじゃないか。
「……言わない、か。そうだよね。浅倉が来るまで待ったほうが、君には都合がいい。君は浅倉のほうが好きだから、彼に助けてもらいたいし彼と一緒になったほうがいいよね。わかってるよ」
わかってる、のだろうか。
「ねえじゃあ浅倉がいなければ、僕が君のいちばんだった?」
それも、こたえる言葉の用意がない。仮定の話なんてしたって意味はない。
「浅倉が死ねば、僕のことだけ見てく…[全文を見る]
審判の日 悔悛
182
正直に、告げた。
その前もあとも思い返したけれど、さいちゅうに考える余裕はなかった。行為自体に対する負荷が大きすぎたという、ただそれだけのことかもしれないけれど。
「ミズキさんも、そうだと思ってたのに……」
あさましいことだけど、それはやはり、残念だった。彼のリビドーが浅倉くんにあると言い切られているような気がした。私は刺身のツマみたいなものだ。添え物だ。
たしかに予期していたしひそかに覚悟もしたけれど、よもや浅倉くんに嫉妬する羽目になるとは気が滅入る。ホモソーシャルでホモセクシュアルな関係なら、女の…[全文を見る]
審判の日 悔悛
181
彼は黙って首をふった。
「縋りついたのは事実だ。でもね、僕は君を抱きしめながら、浅倉はきっと一度も君を抱いたことがなくて、この先もバクである限りそれが叶わないって想像したら、あの状況で、僕は酷く興奮した」
告白を、私は眉をひそめただけで聞いた。けれど耳を素通りするに任せようとして、できなかった。
その言葉は、私と浅倉くんがふたりだけになってしばらくして、彼が初めて吐いた弱々しい反駁の声を思い出させた。
オレは……バク、なんですよ。
あれは、もう何をどうしたってしょうがないという声だった。私は彼に、バク…[全文を見る]
審判の日 悔悛
180
自分の声が細くて、あまりにも弱々しくて、愕然とした。頭では冷静なつもりでも、身体がいうことを聞かない。力の限り引き剥がそうと振りあげた両手をひとつ手に握りこまれ、そのまま重なった胸の間におかれた。頬に頬を寄せられて、恐怖に竦みあがりパニクって荒く頼りない息遣いに上半身を震わせている私を彼が感じているのだとわかった。頭をふり、何かを堪えるように恍惚として睫を合わせている顔を見あげると、泣きたくなった。目の前を塞ぐのは紛れもないあの芳香、プラチナム・エゴイストをおしのけて薫る体温の証。
私が怯えている姿を…[全文を見る]
審判の日 悔悛
179
「そういう意味じゃなくて」
「そういう意味だよ。君は、そうやって浅倉に口説かれたんじゃないの?」
図星をさされて呻きそうになった。
「浅倉に助けきてもらいたい?」
楽しげな抑揚に聞こえた。
どうこたえても、彼は私の返答を愉しむだろうことは理解できた。彼の気がかりはいつでも浅倉くんなのだから。
「浅倉の名前を呼びなよ」
どちらか選べと、はっきりと、どちらが好きなのか言えと迫られているだけで、ミズキさんにいいようにされているわけではないと、私にもわかった。
夜中に突然訪れたあの時からずっと、このひとはそう…[全文を見る]
審判の日 悔悛
178
たしかにベルニーニの天使の姿からイメージは拝借してるけど、でも、それはちょっと……いえ、だいぶ……。
天使???
それはあまりに、自分の理想としてなぞらえるのに、王子様よりお姫様より恥ずかしい、とんでもなく羞恥心を煽るイキモノじゃないか。
よりにもよって、天使とは!
こんな、こんなこと、このひとにこの状態で言われてしまうなんて、信じられない。今までの人生で、こんなに、こんなに恥ずかしい目に遭わされたことってない。
頬に血がのぼり、ヘンなふうに呼吸が乱れていた。せっかくまとめた髪が崩れるのもかまわずく…[全文を見る]
審判の日 悔悛
177
「それだけが、私の取り柄だから」
そうこたえながら、震えているのは自分でもわかっていた。支えられていなければ膝から落ちていきそうだった。そうして小刻みに震える指先を握られて、彼の頬に押し付けられた。
「……ごめんね」
謝るくらいなら、手をはなして欲しいと本気で思った。謝ればいいっていうものじゃないだろう、と口にしようとして、自分の指に濡れたものが触れて、あ、と声をあげた。
なにも泣きながら、ひとを欲しがらなくてもいいじゃないか。
そう、言いたくなったところで、
「好きになって、ごめんね」
くりかえされた…[全文を見る]
審判の日 悔悛
176
相手のほうが私を好きだと言っているのだから、あちらが緊張して窮屈な思いをすればいいじゃないかと思ったりした。大事にされているのも気を遣われているのも一生懸命してくれているのもわかった。わかっているのに、そう思う。たぶんきっとちゃんと好きでいてもらっている。だからこそ、それを気持ちいいと思えない自分を罵り自嘲した。かといって別れたいとも口に出せなかった。どうせ次も大なり小なり似たようなものだろうと想像できた。慣れ親しんだ分、新しく一から始めるより楽だ。
それでも、ふられるとホッとした。自尊心を傷つけられ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
175
彼が期待してるのはどうやらふつうに、当たり前に、自分が愛されているという実感だ。浅倉くんよりも、自分が選ばれているという確かな事実だ。だとしたら、私は自分の身を守るためにも、泣いて許しを請うべきだろう。どうして電話してくれなかったのと恨んで、頭をさげるべきだろう。
でも、そうしたら、今度は浅倉くんになんて言えばいいかわらない。
「そうね。そう言われたほうがミズキさんとしては納得するかもしれないけど、そういうんじゃなかったと思う」
「思うって……」
一瞬、怒りかけた気配を押しとどめ、彼は椅子の背に左手をつ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
174
謝罪しようとすると、もう諦めているという風情で肩をすくめられた。
「まずはその話をしたほうが、いいと思う。今までちゃんと話してこなかったからね。
君が気にしてる、正規の美術教育を受けていないっていうことは問題にならない。現在のところデッサン力のなさは弱点ではあるけれど、芸大に入るためにそこらの教師に習って変な手癖がついてよいところを失くすよりは、超一流の画家に手ほどきを受けるほうがいいからね。年齢のことは言ってもしょうがないし、どれだけ仕事ができるかにはまったく関係ない。
それと、君は自意識が強いから…[全文を見る]
審判の日 悔悛
173
彼はいったん下をむいて、何処か遠くを見るような視線で語りだした。
「あのね、十三、四歳のフレンチ・ロリータだよ。頬杖をついて、そうだね……君の好きなボッティチェルリの三美神のまんなかの、あれは《貞節》だった?」
「茶色の髪の横顔の?」
「そう。金髪をあんなふうに複雑に編みこんでて、すごく凝ったレースのブラウスを着てて、感じやすそうな、薄くて丸みのある小さな耳がかわいくて」
そこでやっと、思い出した。
「あ、あれ、なの? ウソ、やだ、それって……捨ててって言ったのにっ」
頬に両手をあてて、ぶるぶる頭をふった。
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審判の日 悔悛
172
ミズキさんがやや慌てたようすで否定したが、こちらの気持ちはおさまらない。
「なにがちがうの。ちがくないよ。浅倉くんはうまく立ち回ろうとしただけで、なんの解決方法も提示してないってことだもの。まったく、自分がオイシイ位置に立ってるからって、やろうとしたことはただの二股オトコと同じじゃない。しかもどうやって隠す気でいたんだ馬鹿者め。それとも隠蔽する気もないのかしら、まったく!」
私の剣幕におされたのか、ミズキさんは呆気にとられたようすでこちらを見つめていた。それから我に返ったのか苦笑して横をむく。
「……まあ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
171
「ちょっと待って。その論理でいくと、つまり目をつむってれば相手は誰でもかまわないって言いたいんでしょ?」
よりにもよってミズキさんと、なんでこんな低俗な話をしてるんだろうと頭を抱えそうになりながら、反駁した。
「そこはいきなり、経過を飛ばしすぎてるから。それはいかにも男性的な生理に根ざした思考方法だと思うよ? そこは絶対、間違ってる。男のひとは違うのかもしれないけど、よくそういうはなし聞くからわかるんだけど、でもその最終っていうのはね、必ずしもいつも絶対に重要なわけじゃないの。他のひとは知らないけど少な…[全文を見る]
審判の日 悔悛
170
「僕はそれでもいいよ。自分がこの屈辱的な状況をけっこう愉しめることがわかったから。でも、そうと気がつかなければここで君を無理やり押し倒してる。まあ実際そんなことしたら君は二度と僕に近寄らないだろうし、浅倉に殺されかねないからやらないけど」
彼はそこで肩をすくめた。
「それに、そうすることは僕もあんまり楽しくない。君の嫌がることはしない。それくらいしない限り、僕は浅倉に勝てない」
ミズキさんの顔を黙って見あげると、
「また、勝ち負けに拘って、って思ってる?」
「うん」
「しょうがないね。僕にとっては、君は運…[全文を見る]
審判の日 悔悛
169
首をふろうとする前に唇が重なった。さきほどされた不意打ちのキスとちがい、自分の心臓が鳴っているのがわかった。背中にまわった腕のつよさを感じると同時に、角度をかえてくる。あまり深くなる前に胸を押し返すと、すぐに離れた。ほっとしてうつむくと、頤をささえて持ち上げられて、またキスされた。やめて、という直前にはなれて、すぐ押しつける。耳の形をそっと指でなぞられて思わずそよがせた肩を抱かれ、いやだと頭をふったのを追いすがられてくちづけられる。そんなことをくりかえされると力が抜けた。
ジンジャーエールの味と、いつ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
168
「君が憎くて許せなくて酷いことしそうでこわかったけど、僕、やっぱりそうはしないみたい」
言い終えると同時に顔がちかづいてきた。よける間もなく、触れるだけですぐ離れて、彼は目を閉じたままくすっと笑い、
「よかった」
そう、つぶやいた。
よかった、のか。
私には、わからない。
ただ身動きができず、ハンカチを握りしめてじっとしていると、頬に唇が落ちて涙を吸っていった。
「姫香ちゃんてアイスキャンディみたい」
なんだ、その形容は。
さすがに顔をあげて相手を睨む。
「冷たくて甘くてどこかに芯がある」
「どこかっ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
167
「僕はさいしょ、君に会うのにものすごく警戒した。今思うと予感めいたものはあった。浅倉の様子を見れば彼の想い人だってことはピンときたしね。そうしてガードしてこれ以上なく用心してたはずなのに何もなかったかのような顔で微笑まれて、これは拙いって気づいたときにはもう、手遅れだったよ」
私は聞いていられなくて顔をふせた。そうしてその声から逃げたことを恥じながら、ここでそれを聞かされる理由を考えようとして、うまく出来ずに息をついた。
そんな私をミズキさんが見ていることに落ち着かず、これほど視線をコントロールしない…[全文を見る]