審判の日 非洗礼
206
「ミズキ」
そこで少し、ミズキさんは何かを探るような仕種で間をとった。浅倉くんからも、そして私からさえも距離を置いたみたいに見えた。その証拠に、すっと長い扇形の睫のしたで、遠くを見はるかす瞳が黒々と濡れて光っている。
「僕たちはもう、滅びることが決まった世界に生きている。抜け出す以外、道はない。僕は、姫香ちゃんが死ぬのはイヤだし、それはこわい」
思えば、このひとは誰よりも早く、この世界の崩壊を予期していたのだ。私がその顔を仰ぎ見ようとすると、彼は私の視線をよけるかのように目を伏せてかるく首をふった。
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審判の日 非洗礼
205
「ウソ、でしょ?」
「ほんとに。この世界が滅ぶってときに自分の好きなひとと一緒にいられるなんてこれ以上ないことだし、それだけでラッキーって思ってるんだけどね」
さきほどのミズキさんの告白が、今またここでくりかえされていると気がついた。彼にとってあの言葉は、ほんとうに本当のことだったのだ。
ミズキさんの、これ以上なく静謐な、古拙の笑みの美しさに私の涙はとまっていた。驚愕という名の感動が喉許を襲い、熱い嗚咽をとめていた。私はそれを目にすることだけを欲し、けれどもその目にじぶんがうつっている事実に信じられな…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
204
ふと気づくと、外の喧騒が聞こえなくなっていた。先ほどまでやたらクラクションがなって叫び声が聞こえていたような気がするのに、どこか遠くで犬が狂ったように鳴き叫んでいた。そのことが何を意味するのか考えて頭をふる。
それなのにこの部屋の主は口の端をつりあげて、私の泣き顔を舐めまわすように眺めてから言うのだ。
「甘えられるひとがいるから泣いてるだけだよね、姫香ちゃん」
「ミズキ」
皮肉っぽい声に反応したのは私ではなく、浅倉くんのほうだった。険しい表情で椅子に座った相手を見据えた。ミズキさんは浅倉くんを気に留…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
203
そう感じたところで舌打ちが聞こえ、浅倉くんが足を進めた。そしてすぐ、立ち尽くしたままの私に気がついて引き返してきた。
「だいじょぶ?」
あの、よく見慣れた表情でみおろされる。
「ミズキはあんなこと言ったけど」
「わかってる」
穏やかに、目を見て、ほんの少し首をかたむけて微笑んだ。つくり笑顔には見えないはずだ。ウソはついてない。いまの今まで彼に心配されているのだと思っていたけれど、浅倉くんは、私が怯えている状態に耐えられないのだ。ならばこのくらいの意地は張るさ。強がっているわけじゃなくて、これがわたしの…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
202
脅された。といえばこれ以上ないくらいにオドサレタ。でも、そうこたえていいとはどうやっても思えない。この状況でミズキさんを非難させるわけにはいかない。そうでなくとも、私が「悪者」だと考えたことがないみたいな浅倉くんに告げ口していいことはない。悪者は大げさにしても、「汝、弱きもの」的役割をふられてることは間違いないんだから。守る、とかほざいてたしね。いいかげんにしろと言いたいが、言わない。つまり、馬鹿にされてると抗議の声を張り上げればあげるだけ、相手の確信を裏付けるに十分な証拠を与えてしまうわけだ。とす…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
201
彼はそれから私たちの横を足早に通りすぎた。
「ミズキ」
「水、汲んでくる」
「オレも行く」
「いや、ひとりのほうがいい。それより救急道具出して避難梯子点検しといて」
ふたりの平坦な声のやりとりが却って私を不安にする。だからこそ、両手にポリバケツを持った背中に声をかけることができなくて、でも、彼は私の視線に気がついて振り返った。
「姫香ちゃんは、動かないで」
「でも」
「かわりに、どうやったら生き残れるか考えて」
「ミズキさん」
「君がいちばん、生き残りたいって思ってるはずだから。お願いね」
彼はまるでお使い…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
200
家のほう、春日部はふってないってことは、ありえない、か。この時間なら父も母も弟も屋内にいるはずだけど。ああ。留美ちゃん、仙台はどうなってるだろう。彼女、外仕事だ。
耳を聾する雨音、それにかき消されない悲鳴。怒号。「巧妙な悪意」。人体の破砕イメージが次々と襲いきて、文字通り、目の前を金色に染めあげては暗転し、くりかえす瞬きに呼吸が狭まったがために消え去った。明滅のあいまにじぶんが見たものをさえ私は理解しておらず、ただ拒絶の声をあげるかわりに震えていた。
ああ、ダメだ。だめだめ。おかしい。どうなってる…[全文を見る]
審判の日 非洗礼
199
その瞬間、なにかが圧力にたえきれず、破裂して、もうこれ以上とどめおくことのできないものがただひたすら噴出する、その快さを味わう自分がいた。
この地上に落ちる最初の雨のひとしずくを、私は、たしかに眼にうつし、なによりも身の最奥へとりこんだ。
音もなく
(そう、音はいらない)
風もなく
(風があっては無様にまがる)
光が、線になって、落ちきたる
金色の糸の軌跡を、それがやや重く、身もだえするもどかしさに満ちて下降する、ただその、あるかなしかの大気の抗いを受けて放つ煌きの繊細さ、たとえよ…[全文を見る]
審判の日 告解
198
私が最愛の画家に想いを馳せてうなだれている横で、浅倉くんが深く嘆息した。
「十六時間て、おまえそれ、ろくに仕事してないだろ。道理でオレ、今月妙に忙しいと思ってたんだよ」
ミズキさんは浅倉くんに向き直り苦笑でうなずいた。
「そうだね。めんどくさい仕事は浅倉にがんがん投げてた。いつ気づくかなって内心冷や冷やしてたんだけど、遅かったね。ちなみにあと一時間は浅倉をどうやって陥れるか、邪魔されないようにするか考えてた」
「ひでえ」
「気がつかないほうが悪いよ。それに、姫香ちゃんと再会してから浮ついて一仕事クレームも…[全文を見る]
審判の日 告解
197
「そういう意味のないことは言わない」
「じゃあ、画家の卵」
「ああ、その線がきっと、正しいね。でも、それは現状であって、自分の真実の姿じゃないよね」
浅倉くんが、こちらをまっすぐに見ていた。それはすごく何かを期待する視線で、私は妙にどぎまぎした。
「姫香ちゃんは、自分が女性だってことが何か忌々しいことだと思ってきたのかもしれないし、それで天使みたいな美少年に自分を託して王子様になりたいと願ったのだと、自分ではそう思っているのかもしれないけれど」
浅倉くんの視線が痛かった。
そのおっきな目で、強烈な目力を…[全文を見る]
審判の日 告解
196
嫣然と微笑まれ、みぞおちのあたりがひんやりした。思わず、浅倉くんのほうを振り返ってしまいそうになり、あわてて身体をしゃんとさせた。そこへ、
「行きたいっていうなら、行かせてやるのが愛じゃないの?」
いつもの、浅倉くんの掠れ声が飛んだ。
「浅倉?」
ミズキさんの語尾が不安定にあがる。
浅倉くんはそれに頓着せず、私だけをまっすぐに見て言った。
「そのかわり、オレもついてく」
「は?」
よく見ると、思ったよりずっとこわい顔をしていた。有無を言わさぬ顔つきは、そのまま私の頼りなさへとつらなった。
「あんた勇敢…[全文を見る]
審判の日 告解
195
そうして力の抜けた私を通り越し、焦れて熱をもち尖りすぎた追求が浅倉くんにぶつかった。
「姫香ちゃんはともかく、浅倉は僕と彼女がどうしてたか気にならないはずはないよ」
「だからおまえ」
「僕はすごく気になる。気になるというより見てみたい」
見てみたい。って、そこまで言う?
私は立っていられなくて椅子の背に手をついた。だめだ。これは、もう、私が何をいっても無駄なところにきてしまった。悲しいことに、それだけは理解できた。こうなったらこのひとは押しとどめられない。
「ミズキ」
浅倉くんが、掠れ声で名前を呼んだ…[全文を見る]
審判の日 告解
194
彼は困りきった私の顔を見ながら、さばさばとした調子で続けた。
「恋愛が十二世紀の発見だとしたら、さいしょは一対複数だ。ひとりの女性と複数の男。ロマンティックラブが生まれるまでは対幻想なんてのはなかったんだから、これだって正しい形じゃないかな。それに、今時たしかに結婚するしないなんて特に意味はないよね。あるとすれば財産の管理と子供の問題だけだ。それさえ揉めないようにしておけばいい。それでいいよね?」
いいよねって、それ。あまりにも短絡だし、それに。
「ミズキさん、私、子供のことは」
「たしかにさっき聞いた…[全文を見る]
審判の日 告解
193
「姫香ちゃんの家に初めて泊まった日、僕はなんども浅倉に電話した。それこそ三十分おきにね。浅倉はあの日、誰の家にいたのかな。友枝さん、それともマリちゃん?」
マリちゃんってこないだ時任洞にお買い物にきたOLさんだよね。じつは過去に付き合ってたりしたわけ?
浅倉くんは双方の凝視に怯まなかった。が、眉を寄せた苦々しげな表情で口をひらく。
「どっちも行ってねえよ」
「じゃあ、誰?」
にこやかな笑顔でミズキさんが問う。
「誰でもいいだろ、んなの」
「言えないような相手なんだ?」
ミズキさん、こわい。目が笑ってない…[全文を見る]
審判の日 告解
192
私が今度こそ真面目に言い返そうとすると、彼はその隙をついた。
「不満そうだね。君と会ってからこの一ヶ月、僕は、今までになく自分が生きてるって感じたよ。苦しくて切なくて、でもこの時間が永遠に続けばいいって無理なことを本気で願うくらい心臓鳴らしてた。どうせ死ぬなら今がいいって、君といるときずっと、馬鹿みたいに思ったりした」
「ミズキさん……?」
彼は私を見つめ、君は思ってなかったって知ってるけどね、と小さく笑った。浅倉くんはゆるゆる頭をふっている。
「僕は姫香ちゃんに会って、自分がいつも誰かの身代わりをしてき…[全文を見る]
審判の日 告解
191
たじろいでいると、浅倉くんがこちらを横目にした。だから家にいてって言ったんだよ、という顔をしているように見えた。そうだよね、ごめんなさいとここで吐き出せればよかったけど、当たり前にそういう余裕はない。頬にはミズキさんの視線が焼けつくようで怖い。怖いというか、痛い。
浅倉くんはがりがりと頭をかいて、ミズキさんへと頤をむける。
「オレは自力でつかまえたいんだけど」
「それは僕も同じ」
ちょっと待て。
「ふたりとも、私の意思はどうなるの?」
お互い顔を見合わせて、それは、とか、だってなあ、と口にした。
なん…[全文を見る]
審判の日 告解
190
しかも私ではなく、腹の立つことにミズキさんに尋ねていた。そして当然のように私を無視して、彼がこたえた。
「先週、西野さんが言ってたアレだよ。新興宗教の勧誘かと思ってたら、どうやらホンモノみたい」
「失踪者が出たとかいう噂の? 都市伝説じゃないのかよ?」
「それは姫香ちゃんに聞いて。僕は見てないし、よりにもよって自分がギミックの翼つけた天使とホンモノを見間違うはずがないって言い張るから」
微妙に悪意だか底意だか意趣返しだかを感じずにはいられない言いっぷりだったけれど、まあ、たしかにそう言った。間違いない。
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審判の日 告解
189
私が言葉につまると、浅倉くんはもうあからさまに不満を曝け出して唇をまげた。
その一方、さいしょからこたえないことくらい予期していたという顔で、ミズキさんは冴えた笑みをたたえて長い睫を伏せた。こういうのは本当に気障で、凄まじく嫌みったらしい。そして、わたしがそれに反撥をおぼえるのをわかってて、してる。
そうして私がただふたりを交互に見るだけで何も言わないと知ると、今度は浅倉くんがミズキさんへと言葉を返す。
「自分のほうが理解してるから相応しいとでも言うつもりかよ」
「まさか」
大仰なそぶりで首をふり、彼…[全文を見る]
審判の日 告解
188
私はというと、思うように声が出なくておどろいていた。先ほどの覚悟が、本人を目の前にしたら消えていた。唇が震え、喉が狭くなって息苦しさに喘いでいると、ミズキさんが口をひらく。
「姫香ちゃん、僕のことはいいから、ちゃんと自分の思うことを話すといいよ」
顔をあげると、瞳があってすぐに勇気づけるかのように柔らかく微笑みを浮かべた。
「自分の気持ちだけ言えばいい」
「ミズキさん?」
「僕たち三人がきちんと向き合ったのって、実はこれが四度目じゃない? ましてこういう関係になって姫香ちゃんの話を聞くのは初めてだ」
言…[全文を見る]
審判の日 告解
187
杖をついた姿というのは、ただでさえ頼りなく見えるものだ。もともとひょろっと縦に長く薄い肢体が傾いで松葉杖に寄りかかるというのは不安定にすぎた。けれど、頬の高いところに絆創膏を貼った顔はなんだか妙に子供っぽく、疲労や痛みはそこから感じられなくて、不思議なほど澄み切っていた。
それから彼はここにはいないはずの私の姿を見つけたせいか、一瞬、昔懐かしい表情をみせた。大学の中央棟から中庭を抜ける小径にあるベンチで、本に視線を落としているふりで、私が通りがかると頭をあげる、あの顔だ。そうやって目を見開いた浅倉くん…[全文を見る]