3月25日
146
そういえば、好きだともなんとも言わない男もいたな。
その男とは、ダイニングバーでの最悪の出会いの翌日、大学の中央棟の二階で遭遇した。学生課や教務課、就職課のある一階と違い、二階はエアポケットのような穴場だ。ローテーブルにさしむかいでソファが置いてあり、たぶん教職員のためのちょっとした打ち合わせや休憩所として設けられていたに違いない。酒井くんはゼミ長だったので先生に呼び出されることも多く、その場所でよく待ち合わせした。
はじめ、私はそこにいるのは大学職員だと思った。紙パックの自動販売機の前に立つ後姿は、…[全文を見る]
3月25日
145
彼は私があんまり痛がるので途中でやめてトイレで済ました。それから泣きながら謝った。姫香があんまりかわいそうで、と言った。自分でやったんじゃない、という言葉が喉許まで出かかって、嗚咽に飲みこまれた。頭を撫でられて、囁きが聞こえた。
一生大事にする。どうしても自分のものだって思いたかったから。酷いやり方してごめん。もう二度とこんなことしない。姫香のこと愛してる。
どうせなら、終始いやらしい蔑み言葉を言われたほうがよかったような気がする。綺麗とか可愛いという褒め言葉が混じることが不快だった。サービスで言っ…[全文を見る]
3月25日
144
けれど現実は、浅倉くんにさえ言えないことばかりなのだ。大丈夫といわれ、その言葉にのせられたふりをして、たぶん、私は怯えている。どうして大丈夫だなんて言えるのと、責めればよかったのに言えないでいる。それが、私が浅倉くんを好きなせいだとしたら、なんてみっともないことなんだろう。ほんとうに、こんなにも卑怯で弱くて情けない。
かといって、それを今、ここで口に出来るわけもない。
言えるなら、そう、ここで言えるようなら、私はもっと違う人生を生きていた。その自覚があって、なおも今ここで繰り返すのが愚かさでなく何なのか…[全文を見る]
3月25日
143
ちっとも覚えてない。なのにこのひとはそんなこと、ずうううっと忘れなかったってことなの? やだ、それ、申し訳ないし、すごく恥ずかしいじゃないか。
「オレ、この人ほんとに自由でいたいんだなって感動したっていうか……」
「龍村くん、なんてこたえたの?」
すでに私の興味はうつっていて、浅倉くんはそういうこちらの態度にはっきりと苦笑して教えてくれた。
「したい人はすればいいし、したくない人はしなくていいっていう制度が一番」
なるほど。彼らしい。
「それは模範解答だけど、逃げたな」
「そりゃあ逃げるよ。そんな大問題」
く…[全文を見る]
3月25日
142
浅倉くんは何か口を開きかけたけれど、私がまだ話し終えていないことを察して黙った。
「恥ずかしい話しだけど、なにか不変的な、不動の、半身のような存在がいつかきっと現れるって思っていたのかもしれない。自分だけの特別な標が欲しかった気持ちもある。それと同時に、そう願いながらラベリングされてないことを確認して、好きになってくれるひとに忠誠を尽くして楽になりたかったところもある。いつもその両方に揺れていて、どっちもちゃんとまともに貫き通せなかったってことだよね」
ミズキさんに話してから関係するっていうわけにはいかな…[全文を見る]
3月25日
141
「みんな、してるの?」
「あんたの周りはしてなさそうだよね」
「そうね。ヴィクトリア朝的潔癖主義とまではいかないけど、女友達とも実は、話さない。ていうか、話がでないわけじゃないけど、けっきょく本音じゃないんだよね」
「で、本音でいうと?」
ここまで促されて今さら取り繕うのもなんだと思う。
「小説とかドラマにあるみたいに、私にはどうしても、愛情を確認するためにひとつになる行為だとは思えないんだよね」
眉根がつくほどに寄せられていた。
好きだから、したんだろうけど。ふたりして、とりあえずしとかないとなんだか証拠が…[全文を見る]
3月25日
140
「うん。男のひとにされる分にはさすがにもう慣れたみたいだけど、自分じゃできないの。だいたい自分の下半身ってどう考えてもおぞましいところのような気がするっていうか、私、どうして男のひとがそこを見たり触ったりしたいのか正直よくわからない」
「……見たこと、ある?」
「一度、見させられそうになったことがあって……」
ここで、見てないと言いたいと思ったけど、ウソはばれそうだから、
「たぶん、そのときに、イッシュン見た」
浅倉くんは眉を寄せて何事か考えるような顔をしたあと、ぶるぶる頭をふった。
「オレ、ええと……その、ああ…[全文を見る]
3月25日
139
そこは、なんとなく、わからないでもない。いつも、それとなくあちらこちらで非難され続けてきたから。醒めている、または冷たいと、そうでなければ何処となく壁があると。親しくなればなるほど、一線を引いていると詰られた。
「ひとを拒絶してた?」
用心深く尋ねると。
「や、そうじゃなくて……どこにいても、あんたの周りだけ空気が違って見えるっつうか、オレだってふられてから後は見ないようにしてたのに、なんだか気がつくと目に入っちゃうっていうか……」
このオトコ、真顔だ。
口説いている最中ならまだしも、今、言うか?
呆…[全文を見る]
3月25日
138
「あのね、私には、自分の失敗や馬鹿さ加減を浅倉くんに肩代わりする趣味はないの。というより、そうしてしまう自分がみっともなくて、そうしたくないの。それだけじゃなくて、二十年ちかく前のことを覚えてられるほど、私は記憶力がよくない。初めての男のことは忘れないっていう神話はロマンティックにすぎると思うよ」
「じゃあなんで、わざわざ」
「浅倉くんの真似をして、試そうとしただけ。でも、それって性に合わないみたい。けっきょくそれって、こんなバカな、どうしようもない自分でも好きでいてくれる? っていう確認でしょ?」
唖…[全文を見る]
3月25日
137
いま思い出してみても、響子のいうことは正しかった。私はすでに彼が浪人すると言った時点でいやな予感に気落ちした。
しかも、狙いすましたように、推薦で美大に受かった元カレに告白のときと同じかるい調子で、ヨリ戻しちゃったりしない、と美術準備室で誘われた。テレピン油のにおいに顔をしかめるように、カノジョいるのに、というと、付き合ってくれるならあっちは卒業したら縁切るよ、と堂々とぬかした。
そのノリについてけないと答えるかわりに、ふったのそっちじゃない、と別れた時にも洩らさなかった不満をぶちまけると、けどさせ…[全文を見る]
3月25日
136
誰かというのは誰か、ふたりとも知っていた。かといって、今さら口に出すこともできなくて、そして質問者である浅倉くんだって言えないだろうと察した。
「男がいなくても生きてけるってあんたが自分で言ってたじゃん。だいたい、おとなしく人の言うこときくタイプじゃないでしょ」
そうかもしれない。
「なんで私、じゃあ、あのとき、言われるままになっちゃったんだろうね」
BFに請われるままセックスしてしまう友人たちを、私は醒めた目で見ていたはずだ。
「それ、女の人に話したことある? オレからするともう、その男が悪くてあんた…[全文を見る]
3月25日
135
斜めに見あげると、眉を寄せて頭をふった。
「焦らしプレイは勘弁して。オレ、絶対泣いちゃいそう。ていうか、これ、マジで外れないんすけど」
「痛い?」
慌ててきくと首をふった。それからうつむいて目を伏せ、
「たしかにオレ、こんなにちゃんと縛られちゃうって思ってなかったかも」
そう、白状した。
瞳があうと、照れたように笑った。
「なんかもう、ほんとにあんたの好きにしてっていう感じ」
浅倉くん。
私は、このひとを試そうとしている。
自分に戒めてきたことを許すのは、彼に甘えているからだ。
「私の身体、どこも変な…[全文を見る]
3月25日
134
捧げもつと、浅倉くんの腕は重かった。そうか、重いのか。そんな当たり前のことに息をついた。肌のうえには血管が浮いてるし毛まで生えてるし、オトコって奇妙な生き物だと思う。私がパジャマにウールのカーディガンを羽織っているのに、上半身裸で汗をかいてるなんて、なんでこんなに血が熱いのか謎だ。まあそれは私の言い分で、彼からすると冷え性の私のほうが奇妙なのかもしれない。
結び終えたのに意地悪して何も言わずに立ち上がる。振り返った顔に、そこにいて、と命じて自室から「お道具」を取ってくることにした。
浅倉くんはほんと…[全文を見る]
3月25日
133
だいたい口割るって、それじゃ私が犯罪者のようじゃないか。私はそんなにチャレンジ精神旺盛じゃないんだけど。もうふつうに、あんまり変わったこととかしたくないよ。めんどくさいし恥ずかしいし大変そうなこと嫌いだし。って、私、浅倉くんにさえなかなかこういうこと言えないのか。気が弱くて嫌になる。なんとも言いようのない惨めさに押し潰されそうになった瞬間、
「イヤなの?」
首をかしげて問われていた。
「……わからない」
そう口にして、私はこの難問から逃れられるものと期待した。ところが、そうはいかないのが現実だと思い知る…[全文を見る]
3月25日
132
放課後の物理準備室で、かわいいと何度も囁かれてキスをした。主観というのはスゴイものだと感心した。私をこの世でいちばんかわいいと言える男の子がいることが薄気味悪くて、その滑稽さも含めてきっと、気持ちよかった。大事にしたいからと言われてそれ以上はしなくて、その前に付き合っていたカレがすぐに身体に触りたがりセックスを断ったらふられたようなものなので、私はきっとうれしかったはずだ。
彼はまさしくロマンティックラブの推奨者で、この世でただ一人のひとと恋愛してセックスして結婚するのが幸福だと信じていて、それなのに…[全文を見る]
3月25日
131
「高三の夏の終わりに付き合いはじめて、大学受かったらしようか、みたいな話になってたはずなんだけど、彼、本命に落ちたの。しかも滑り止め受かってたのに行かないって言い出して……あとはもう、すごい気詰まりな付き合いが続いてね」
自分には、見切りをつける能力が備わっていないと知った。間が抜けているのだ。ひたすらに。気づかなかったわけでも、なんでもない。ただ、おのれの直感を信じられず、希望、いや我執とでも呼びたいような頼りないものだけで不安を覆い尽くしていた。
「夏休みに彼の部活の後輩と偶然あって話して、それでその…[全文を見る]
3月25日
130
「だって、そういうのわかんないんだもん。とりあえずは浅倉くんの好きにすれば。私もそれで対応するから」
口にした瞬間、後ろの身体が硬直した。つづいて途方もなく大きなため息が落ちてきた。
「オレの好きにしたらあんた絶対、ものすごく困るくせに」
「だから、怒らないなんて一言もいってないじゃない」
「そうっすね」
がっくりと頤をひいて、私の胸前で交差させていた腕を力なくするりとおろした。そんなことにも身体を震わせそうになり、無意識のうちに反応しないよう気をつける自分がいた。感じやすいと言われるのが苦痛で、たぶんそ…[全文を見る]
3月25日
129
それにしても、太平楽な顔で眠るオトコの横で思い出すのはミズキさんのことだ。電話もメールもないことが気がかりで、トイレに起きたときに隠れて携帯電話をチェックする。
やはり、何もない。
途切れようもなくあることを意識しつづける己を嘲笑い、気分をいれかえるために髪をかきあげた指先に問いがとどく。
「連絡ない?」
うちのなかで気配を殺して立たないでよ。
てっきり寝ていると思ったのに、起き出してドアの前にいた。ということは、何もかもお見通しってわけか。あああ。
「心配?」
肩にうしろから腕をまわされて、うな…[全文を見る]
3月25日
128
考えてみれば、こんなふうに注文をつけるのはこないだのミズキさんに続いて二度目のことだった。私にしては大した快挙だと笑いそうになったところで、彼が、あ、と声をあげた。
それから、すんません、とドアをあけてお菓子を手にし、しずしずと戻ってきた。
そうしてドアが閉まった瞬間、ふたりしてその大きな包みを見て吹き出した。
「よくこんなにお菓子ばっかり大量に買ってきたね」
「蟹とかイクラとか家からもってこようとしたんだけど、もし会えなかったらまずいし」
札幌にいた時点でもう、ここに直行するつもりだったらしい。そう…[全文を見る]
3月25日
127
それにはぎょっとして私が息をつめたので、彼は笑って、仕事のことだよ、あいつ社長だし、とこたえた。私もミズキさんに口で勝てると思っていない。というか、腕力でも、申し訳ないけれどこのひょろっとした浅倉くんのほうが強いとは思えない。
俄かに不安になってうつむくと、頤を指でつままれて顔をあげさせられた。
「だいじょうぶ。今まで一度も、あんたの命令、失敗したことないじゃん」
「そう、だけど……」
「ちなみに、ミズキの命令にも逆らったことない。完全絶対服従なんだよね」
目をしばたくと、彼は右手でバッグの中を探った。い…[全文を見る]