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Tips:「話題」は“北海道/札幌/中央区”の様にスラッシュ(/)区切りで下位の話題を作り、重層化することができる。
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遍愛日記のことを語る

3月23日 正午
66
 
 
 とくに重い荷物もなかったので、築地から八重洲まで歩くことにした。中央区役所の前、首都高速にかかる橋のあたりで風を感じるのがたまらない。視線が前後左右に開けるだけじゃなくて、足下が抜けていて軽いのがいい。下が川でなく、車がびゅんびゅん走る道路というのも、動きがあって好き。同じ理由で歩道橋も嫌いじゃないのだが、たいてい地面は平らで一直線で見渡す楽しみが少なく、赤信号なんかで止まられると一気に興がさめる。その点、ここは道路のアップダウンの高低のもつ不安定感もあるし交通量は多いしで気分が浮き立つはずなのに…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
65
 
 
 私が何もかもを手放して膝から落ちると、背後の視線が途切れた。
 その刹那、不安定な体勢で抱き支えられて我に返る。
 いま、肘をついてこの身体を突き飛ばせばいい。そう感じたくせに、私は動けなかった。
 だって、そうしたら、どうすればいいのだ。いま動けば、ミズキさんはそれを察知するだろう。それは、こたえを出すということだ。さっき浅倉くんに言われたとおり、それは、紛れもなくそういう意味だ。
 なにも先が視えなくて、どうしたらいいかわからなくて、本能的に身を竦ませ、私は自分のそばにある確かなものに縋りつきそう…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
64
 
 
 「ミズキさん、普通そういうこと言わないんじゃないのっ」
 反射的に声をあげた私の剣幕にも相手は冷静だった。
「僕にとってはこれがふつうだし、べつに普通じゃなくてもかまわない。それに、知りたいと思ってたことじゃないのかな」
 立ち上がった浅倉くんの顔を一瞥してから、すうっと視線をはずして庭を見た。
 心臓が痛かったのは、自分が緊張しているせいだった。浅倉くんの背中はぴくりとも動かなくて、ミズキさんの瞳の向こうを追うと低い木があった。
「この庭もいい加減、ちゃんとした庭師さん呼ばなきゃいけないね」
 そのつ…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
63
 
 
 誰か助けて……悲鳴のようにそう思い、でも、こういうときに誰も助けてくれないのが現実だと痛いほどに感じる。それに、そんなのおかしいと訴えても、ミズキさんには通じない。だから、震える唇を指でおさえ、肩で息をしながらも、言い返す。
「私には、なんの権利もないの? こんな、二者択一しかなくて、それ、私に人権がないみたいじゃない」
「姫香、ちゃん?」
 そのときはじめて、ミズキさんの表情が動いた。
「選べっていって、私にその権利があるようなこというけど、ウソだよ」
 私の非難に、ミズキさんは顔を伏せた。俯きかげんの…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
62
 
 
 そんな気恥ずかしいことは言うつもりはなかったのだが、反論するならソッチの方面しか思いつかなかった。
「魂があるかどうかは僕にはわからない。でも君がそれを信じて大事にしたいと思っているのはよくわかる」
 失敗したように感じたけれど、馬鹿にされている様子はない。ネオ・プラトニズムの本など読んでいるのがばれているわけだから、当たり前か。あれこそ霊魂の問題の最たるもののような気がする。
「僕は、そういうことを考えてる君が好きだよ」
 すこしだけ照れくさいような顔をして言われ、きゅうに恥ずかしさがこみあげた。ま…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
61
 
 
 絶句というのは、こういう瞬間にあるものだと悟ったよ。
 いいかげんにしてと声をあげるべきなのか、無視するべきなのか、冷静に理を説くべきなのかすら、わからない。
 正直、自分がこのひとを読みきれていないと思い知らされていた。それは、たんじゅんに恐怖に通じる。彼は私が対応に躊躇しているのを悟ってから、声音をかえて応答した。
「僕は殺すとは言ってないよ。相応の復讐は考えるけど、犯罪者になるつもりはないからね。それにまあ、相手が浅倉ならとりあえず留保するけど」
「あのね」
「僕が心変わりしたり浮気したら殺しても…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
60
 
 
  言葉につまったら負けだと思った。けれど、さすがにすぐさま言い返せるほど自分が潔癖じゃないと、知っていた。指先が冷たくて、なのに頬から耳のあたりは熱かった。らしくないくらい逆上せあがっている。
 彼は、まっすぐに私を見つめて口にした。
「僕は自分でも正しくないことをしてると思うよ。僕はきっと、間違ってる。でも僕はそういう人間で、この先の人生を共にしたいと思う相手にそれを誤魔化していいところだけ見せておこうとも思わないし、そこまで厚顔無恥にはなれないよ」
 私はその視線をよけて、よけたことに気がついてど…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
59
 
 
 運命ってウンメイって、そういうことこういう場面で言うひと、この世に実際いるんですか? あれは虚構じゃないんだ。乙女じゃあるまいし、酸いも甘いも噛み分けたいい大人が恥ずかしいじゃないか。いや、もしかしてこれで「普通」なの? 今まで、なんとなくでしかそういうのしてこなかった私のほうが少数派なんですか?
「姫香ちゃんの幸せのために最大限努力する」
「ミズキさん?」
「君がいなくちゃ、僕はこの先、生きてく自信がない」
「ミズキさん、あのね」
「ほんとに。姫香ちゃんと一緒になれないなら生きててもしょうがない」
「…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 午前
58
 
 
 翌朝、せっかくクルマできていることだしと、ミズキさんのお家に植木鉢を預けることにした。最悪は弟に頼んで実家に運ぶつもりだったけど、築地のお家ならお世話もしてくれるひとがいるから安心だ。われながらひと使いが荒いことこの上ないが、これが自分の取り柄でもあると実はひそかに思っていた。
 そんなわけで、ミズキさんが鉢を運んでくれている間に私は貝母の鉢をもってベストポジションを選ぶべく庭にはいり、きょろきょろあたりを見回した。
 おばあさまがお茶を教えていらしたころは、日本庭園らしく整えられていたそうだ。その…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
57
 
 
 「うん。だって、頭よくなりたいんだもん。そのほうが人生楽しそうだもの。パノフスキーの本を初めて読んだとき、すごく感激したのね。うわ、アッタマいいって、自分の見てるものをこんな風に説明して理解できるってことは世の中がすごくよく見えたり味わったりできるんだろうなあって」
 アーヴィン・パノフスキーか、そりゃあすごいよね。美術史のヴァールブルク学派の泰斗の名前をつぶやいてから、
「ただ、賢明で物事がよく見えることは必ずしも幸福になるための必須条件じゃない」
 私は自分がさほど緊張していないことをいぶかしみな…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
56
 
 
 うわあ。いい、いいから! 両手を突っ張って押しのけようとしたところで微笑まれた。
「筋骨調整法を施してあげる。姫香ちゃん、肋骨、折ってるせいか胸が窮屈そうだから、できれば開いてしまおう」
 開いてってなに? 『エイリアン』の映画のごときオゾマシイ場面が思い浮かび、あわてて首をふる。
「子供っぽくてこの薄い胸、僕はけっこう好みだけど、これはすごく苦しい身体だから、大人の身体になったほうがいいよ」
 ミズキさんがいうと、なんだか妙にエロいんだけど。という私の表情を読んだのか首をかたむけて口にした。
「お風呂…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
55
 
 
 強い視線に怯みそうになった。こういうときのミズキさんには軽口の気配や甘ったるいからかいや一切のごまかしがなくて、困ってしまう。
「でも、そんな……自分の傷とかコンプレックスとか、そういうもののために絵をかくって、しかもそれを見せるなんて、なんかそれ、矮小っていうか、見るひとに申し訳ないっていうか……そうじゃなくって、もっと、なんていうか大きなものとか美しいものを見せたいっていうか……」
 矮小で卑小な人間じゃないかと突っ込まれたらどうしようと震えると、彼はまた顔をこちらにむけて、次の瞬間には派手に吹き出し…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
54
 
 
 こちらの不機嫌をものともせず、にっこりと笑って首をかしげてきた。そういう彼のほうが、私の千倍もかわいく見えた。
 カワイイには、意味がふたつある。
 純粋に美的見地による愛くるしさへの賛嘆と、自分より劣っているもの弱いもの庇護を必要とするものへの好意的な意思表明だ。
「それで君を軽々しく扱おうと思ってるわけじゃないよ。だってすごく強暴だもん。僕はなめてかかってない。もっとも進化したネオテニーの特徴があるのは黄色人種の女性だそうだから、すなおに受け入れれば?」
 どうせミズキさんみたいに八頭身じゃなくて…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
53
 
 
 自分の声が、かなり尖っていることに気がついていた。彼がわざとらしいほどのため息をついたくせに何も言わないので、私のほうが口を開いた。
「教室で堂々と男の子たちにブスって言われたことだってあるんだから」
「そう言われても、そのうちの誰かは君の気を引きたくてそう言っていたことくらい、君は知ってたはずだ」
 喉奥に襲いきた不快感に相手の顔を見返した。声が震えないようにできるか不安だった。
「……そうね。許せなかったのは、ブスだって罵られて囃し立てられることじゃなくて、ブスのくせにって言われることよ」
「それなら…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
52
 
 
 もちろん自分も、と思いながら目を閉じた。
「学者風のおじさんに展示物の説明してもらったり券売機に並んでると招待券をくれるご夫婦がいたり親切にしてもらうこともあったけど、そうやって優しくされるだけじゃなくて、おかしいなっていうときもあって」
 ミズキさんの視線を頬のあたりに感じた。でも、目を開けないで、暗闇のなかに自分をおいておこうと決めていた。
「子供がひとりで来てるから珍しいのかなって思ったけど、そうじゃないんだよね。何か買ってあげようかって近づいてくるオジサンとかオニイサンがいて、ほんとに子供好き…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
51
 
 私は、別れた奥さんとやりなおすと頭をさげた元カレが凄くすごく、羨ましかった。おいおいと思いながら、そんなに誰かを好きになれるなんて素晴らしい、マニュフィーク! と、心中で叫ばないではいられなかった。
 ずっと、穏やかな優しいひとだと思ってた。もうオジサン入ってて、私に対しても従兄のお兄さんみたいな感じで、でも、それは慎みなく言うととても、トテモ気持ちがよかった。私の取り扱いの巧さでは、間違いなく歴代一位だと思うほどの居心地よさだった。
 なにしろ自由だった。好きにさせてくれたのだ。
 でも、それって実は…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
50
 
 
  一方的な被害者意識というのに厭きあきし、それと同時に自分が容易に加害者になりうる状況が用意されていて、さてと、一体どちらから世界を眺めたらいいのかと問いかけると、それは実は、一方的に弱いもの、劣ったもの、虐げられたもの、そういう立場からのほうが正しいのではないかと感じることがある。
 もちろん、正しいという感じ方もまた、ひどく驕ったことだと思っている。でも、どちらとも言えない場合は、そのほうが「健全」なような気がする。強さにはいつでも、油断ならなさがつきまとうから。そしてもちろん、弱くても、相手を…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
49
  
 
 ないよ、ない。そんなのふつうに暮らしてて、あるわけないじゃない。
 でも、その、なくて当然だと思うことが、そう思えてしまうことが、自分の幸福なのだということは知っている。
 世の中の悪意や悲運、その他もろもろ、この世の底を覗き見るような体験をしたことがない。でも、そういうものがあることは知らないわけじゃない。
 それはいつも、ひっそりと、自分のすぐ左斜め後ろくらいにあって、気がつくと皮膚に触れそうになることがあるくらいのそばで、生温かく、またはなにか火傷しそうに熱いもので、完璧に無視するにはいかない…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
48
 
 
 「治してあげようとしてるのに」
 不満げな声を出されたが、それは要らぬお世話だ。めったに足が痺れないのが自慢だというのに、なんという体たらく。
 私は彼の手をはなし、自分で自分の足を触った。ああ、気持ち悪い。ぞわぞわする。こうなる前に、てきとうに体重を移動させたり足の指を重ねたり、いろいろ手立てを講じるのだが、忘れていた。しばらく彼に背中をあずけ横座りのまま足を撫で、指先を動かしたり足首を揺らしたりしていた。
「姫香ちゃん、僕をひとりにしないで」
 私は、自分より大きな男に子供のように抱きつかれている…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
47
 
 
 「ちなみに父と母はほぼ別居状態だけど、離婚するほどの思い切りはないし、君や君のご両親の前で常識的な家庭人として振舞うくらいのことはできるだろうし、いや喜んでそうすると思うから、そこは心配しなくていいよ」
 リアクションに困り、ただうなずいた。
「僕が小さな頃、父の仕事の関係で数年くらいずつ海外にいたのは前に言ったよね。中学から築地で祖母と暮らして、高校のころには従兄弟の店で見よう見まねでDJ 始めて、まあ何となく落ち着いてあまり考えることもなく大学行って、それから後は前に話したとおり。ほんとは十代の頃…[全文を見る]