3月23日 午前
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翌朝、せっかくクルマできていることだしと、ミズキさんのお家に植木鉢を預けることにした。最悪は弟に頼んで実家に運ぶつもりだったけど、築地のお家ならお世話もしてくれるひとがいるから安心だ。われながらひと使いが荒いことこの上ないが、これが自分の取り柄でもあると実はひそかに思っていた。
そんなわけで、ミズキさんが鉢を運んでくれている間に私は貝母の鉢をもってベストポジションを選ぶべく庭にはいり、きょろきょろあたりを見回した。
おばあさまがお茶を教えていらしたころは、日本庭園らしく整えられていたそうだ。その後だんだんとイイカゲンになってきた、というのが彼の言だ。その言葉どおり、ぷちぷちして愛らしい紫のムスカリと春蘭やスミレが並んでいる。とうに散ってしまった枝振りの立派な紅梅は蝋梅と連翹を従えて窮屈そうにしているし、意外に目立つ沈丁花は今が自分の時だとばかりに芳香をまきちらして偉そうだ。
このはちゃめちゃな感じはミズキさんらしくないと思う一方で、ご近所にビルが建つたびに庭木の一部を引き取ってきたと苦笑した横顔は、彼らしいとも納得する。
私は手入れされたいかにもな庭園も好きだけど、この、みなが自分勝手に主張しながらひとところに寄り添っている感じは悪くないと思う。うちの子たちも、仲良くしてもらえそうだもの。
鉢とバッグをおろして顔をあげると、鳥の翼のはためきが聞こえた。梅の木にヒヨドリがとまっている。私がいるのに大胆な、と思ったけれど、よく見るとミカンが枝にさしてあり、どうやらよく餌付けされているらしく、こちらの注視に頓着せず夢中で突付いている。近寄ってみるかと足をすすませたところで、ミズキさんに横から声をかけられた。
「姫香ちゃん、これ」
鉢植えを渡されるものと両手をだすと、右手をつかまれて、硬くて小さなものを掌の中に落とし入れられた。この形状は、見なくともわかる。手をひらくのは躊躇われたが、いたしかたない。
「僕からのプレゼント」
予想したとおりの物体がそこにある。しかもちゃんと、誕生石のエメラルドだ。
履歴書から探ったのかと思ったが、違う。初対面のとき、彼のお店の会員カードを作るのに生年月日もかいたのだ。お誕生日特典あるから、と説明された。書類を見て、字、綺麗だねとほめられた。ほんとはちっとも上手じゃないのだけど、気をつけて書いた。右肩あがりに几帳面にかけば、まあ、見られないことはない。
それからあのとき、渋澤龍彦と同じ誕生日だと続けられてびっくりした。知らなかった、うれしいかも。そう言うと極上の笑顔に見舞われた。いっぽう浅倉くんが、こいつ誕生日オタクなんすよ、と苦笑すると、浅倉はココ・シャネルと同じ、と言葉が返る。へえ、革新的てお洒落で素敵じゃないとその顔を見ると、あとは女癖の悪いビル・クリントンとも一緒、とミズキさんがつけたした。言われた本人は苦虫を噛み潰したような顔で唇をまげて、それは余計だっつうの、と口にした。いささか居心地の悪い気がしたのは、仲のよさをあてつけられたように感じたからだ。見つめあう双方の真ん中で私は常識的に話を継ぐために、かたほうの生まれた日を問うた。すると彼は、僕はヒミツ、と片目をつむり、その謎めかしに不満を表明すると、自分の誕生日を教えるなんて魂とられちゃうよ、と悪戯っぽく笑った。
いま、手のうえにある碧玉はまさしく正しいエメラルドカットで、四角い生真面目な顔をしながらも黄金に縁取られて官能的に見えた。なるほど、これがヴェヌスの石な理由は春の色だからだと得心する。掌の赤みに黄金のやわらかさと重みがとけるようで、プラチナを尊ぶ日本人らしい潔癖さは忘れていた。
「色が白いからよく似合う」
ぼうっとしてると手首を持ち上げられて薬指に納められる直前だった。震えて手をひくと、すんなりとはなして何ほどの様子でもないといった様子で見おろしてくる。
「祖母の形見。一応、あの時代の婚約指輪だったけど、もっとちゃんとしたもののほうがいいなら用意する」
そういう話じゃないだろうという反論を飲み込んだ。かわりにさりげなさを装って、つぶやくことにした。
「私、指輪しないから」
そんな理由でつき返すのもなんだと思いながら、他に断る文句をひねり出すことができなかった。あんなに迫られた昨夜から、朝はうってかわっていつも通りの顔をしてくれたので、私はついつい自分の都合よく解釈していたのだ。まさか、こうくるとは思わなかった。
ミズキさんは、こちらの緊張と弛緩の何もかもを見抜いている。強く拒絶すれば、それ以上は来ないはず。はず、というのはアヤシイけれど。でも、昨夜はそうだった。
「僕もしない。指輪が邪魔ならネックレスでも帯留でも好きなようにすればいいよ。僕はそういうのこだわらないから」
敵もさるもの、なんなくスルー。であれば。
「ミズキさんのお母さんやお姉さんが受け取るものじゃないの?」
「それはすでに生前分与してあるよ」
頭のすみで妙なことを考えていた。持参金じゃなくて、ゲルマン民族で夫の側から支払う贈り物はなんて呼ぶんだっけ。だめだ。思考が逃げてく。ああ、やばい。こういうときなんて言うといいのか、ちっとも思い浮かばない。破れかぶれで顔をあげた。
「ミズキさん、とにかくこれ」
「君の手、ほんとに人形みたいだね」
話をずらす目的ではないように聞こえた。目を細めて見つめる表情に、すこしだけ気分が晴れた。
「手だけは、ね」
唯一、褒められても戸惑わない。白魚だの桜貝だのという比喩を口にされても恥ずかしくない。おかげで、初対面の人物の顔を見る前に手を見てしまいそうな癖がある。手は、顔よりも雄弁で、よほど訓練しない限り、なにもかもあらわだ。
「姫香ちゃん、僕と結婚してここで暮らして」
ミズキさんはごくストレートに自分の要望を口にした。
「そういうわけにはいかないでしょう」
すらりと出た本音に私自身がおどろいて、よし、このまま逃げ切るぞと思ったときのことだった。
「僕に見込まれたのが運のつきだと思って諦めて。姫香ちゃんに会ったのは運命だから」
運命?
遍愛日記のことを語る
