お話しするにはログインしてください。

|

Tips:強調記法:**強調**の様にアスタリスクで二重に囲った文字は強調される。
id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
126
 
 
 自嘲した私の気持ちの変化を気取られた。
 腹をくくって、ミズキさんの影の部分、彼が私に言わないことを知りたいと感じた自身の欲望を認めたほうがいいのだろう。いや、知りたくないのか。
 知ってしまえば逃げられない。またはもう、追い込まれてしまっている。
 どちらにしても、それを浅倉くんに話してしまいたい私の弱さも認めないとならない。
 どうしたらいいか、このひとに尋ねてしまいたいと思っている。
 私よりミズキさんとの付き合いも長く、彼を理解しているだろうし、こういうことをさりげなく伝える能力もある。もしくは伝え…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
125
 
 
 降りる瞬間にさりげなく離そうと思っていると、すごく自然にこちらの手をほどいて握り返してきた。そのまま掌をあわせて指をからませようとするので手をひっこめようとしたところで、扉があいた。
「こっち」
 左右を見渡す背中に声をかけ、彼の指を数本にぎって引っ張った。すぐに離して、先を歩く。この上の階は数家族しか住んでいない。余裕のある間取りというやつ。
 地上十五階というのはこのあたりではけっこう高い。風は冷たかったけれど、どこまでもまっすぐに続く武蔵野線の高架が低いところに見えるのが気持ちいい。こうしてひさしぶ…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
124
 
 
 喉奥から搾り出されたような、掠れっぱなしの声をぶつけられ、私は何故か、笑いたくなる。自分の間抜けさに、幼さに、至らなさに、そして愚かさと弱さに呆れながら、ほんとうのところ、私はきっと、それをどうしても、どうやっても受け入れられないのだと。認めて引き受けていないから、こうして失敗をくりかえしているのだと、わかりたくないのだ。
 私は、このひとに、ほんとは支えられている。
 この今、浅倉くんに肩を抱かれて背中をドアに凭れかけていなければ、ずるずると小さくなってしまいそうだった。このまましゃがみこめばもうひと…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
123
 
 
「離して」
 自分の声が上擦っていないことに気がついた。渾身の力をこめて突き放そうとすると、反動で自分の手からバッグが落ちた。
 あ、と声をあげたのは彼のほうだった。乱雑な音がして、中身は飛び出さなかったものの布にくるまれたモノ達がそこに入っていると主張し、たたんで丸めたストールの先がのぞいた。彼の視線がしたに落ち、拾うか拾わないか迷ったようだ。その逡巡する顔にむけて言い放つ。
「浅倉くん、私はミズキさんが好きなの。いま、やっとわかったから」
「なに言って」
「ミズキさんのほうがずっと好き」
「うそ、つくなよ…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
122
 
 
 聞きたくないと言われるかと思えば、目を見開いてこちらを凝視した。どうしてこんなことを話してしまうのだろうと考えながら、とまらなかった。
「あのあんまり瞬きしない両目でじっと、息を潜めるようにして見てるの。じゃなきゃ目をきつく閉じて、ぴたってくっついて動かない。眠れないのってきいたら、眠るのもったいないって言うわけ。そうこうすると、なんで物事には終わりがあるんだろうとか言い出す始末で、私が困ったなあって感じるとすぐ、話をずらすの。それがまた絶妙で、こう、するりと身をかわすっていうか、このひと女に生まれてた…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
121
 
 
 無視して顔をそむけると、耳を舐めるようにして卑猥なことばを囁かれた。
 こちらの反応を見るためだけの態度に頭にきて睨みかえす。不思議なことに、それで少しは冷静になった。すると今度はただ、好きだとうるさいくらいくりかえしてきた。ここは玄関ポーチで、まるきり視界が遮断されているわけじゃない。こんな押し問答なんてのは最低だ。私は彼の胸に肘をつっぱって、早口にいった。
「どこか、とにかくここじゃないとこで話さない?」
「人に見られて困るんだったら、さっさと開ければいいだろ」
 その傲然とした言い方にかっときた。
「…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月25日
120
 
 
 マンションのエレベーターのなかで再度メールをチェックした。お茶席なので電源自体を落としていて、終わってすぐ、残月亭写しの広間のお菓子が「春の野」だったと報告メールを打ったのに、返事がきていない。もちろんお仕事だとはわかっていたけれど、あんなに頻繁に来たものが今日に限ってなにもないと、不安になる。
 別れ際にはべつに、変わりはなかったと思う。
 出掛けに、あと十分でも二十分でもふたりきりでいたかったなあと呟いて、今日みたいな日こそ車を用意すべきだよね、と申し訳なさそうな顔をするので、私は首をふってこたえた…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
119
 
 
 両手で背中を押されてこわばりが解けるのと同じくして急激に気管が活動しだした。すこしは慣れたのか、涙が出て止まらないほどの咳は出ない。なだめるように肩甲骨をそうっとさすられて、ミズキさんの手が何に似ているのか思い出した。
 南仏の、香料の街グラース、あそこで浴びた日差しはこんなだった。黄金の蜜が天空高くからしとどに押し寄せるような、なにか、光の重さを感じさせるほどの勢いで、地上の花の香りと一緒にからだを練り上げられた。身の内で凝っていたものが溶解し、たちのぼって散じるような感じがした。
 そうして肩…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
118
 
 
「現実的に話すとカトリックのように〈相共に拒むな〉っていうのは困難だよ。僕がしたいときに君がいつでもこたえないとならないとすると君の時間を奪うことになるし、僕は外出しがちだから逆に僕が応えられないこともあるよね」
 真面目な声で話しているのに、ちっとも手を休めないで指の先をリズミカルに頬に触れさせ続けるミズキさんの顔を見て問う。
「ねえ、この、ほっぺをつつきつづける行為には何か意味があるの?」
「ん、どのくらいしたらうっとうしがるかなあって」
 がくりと頭を倒してうなだれた。さすがに指は追ってこなかっ…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
117
 
 
 自分には、セックスの才能というのがないのかもしれないと深く危ぶんだ。勉強やスポーツに優劣がつけられるなら、どんなことにだってあるだろう。来須ちゃんにこっそりと、そういうのってアルと思う? と真剣な声で問いつめると、先輩、なんでも才能や運のせいにしちゃ駄目ですって、と呆れ声で叱られた。じゃあ努力なの、と泣きつくと、盛大なため息をつかれた。涙目で見あげると、先輩はわかんなくてもいいんですよ、といつもの言葉でなぐさめられた。
 私は間違っても、あの子を世俗の垢塗れにしてはいけないと女友達に守られるような…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
116
 
 
 あらためて問われると、ことばにつまった。彼は私の肩から手をはなした。掌しか触れられていなかったというのに、それが去っていくと驚くほど温かみが失せた。
「僕は今まで自分のわがままを通すことのできるような関係で恋愛をしたことがない。もちろん相手の何もかもを望んだこともない。それはさいしょから無理だし、僕自身、どこかでちゃんと割り切ってきた。少なくとも頭ではわかっていたし線も引いた。
 でもね、君にはそれが上手くできなくて、そのくせ僕は君とだけはずっと一生、死ぬまで仲良くしたいんだよ」
 私もいつもそう思…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
115
 
 
 お風呂を出て、いつもより丁寧に全身肌をととのえた。こういうとき毛深くなくてよかったと思う。顔かたちは整形でもしない限りどうしようもないけど、肌は手をかければかけたほどそれが返ってくるからありがたい。そうしていつものルーティンワークをこなしているはずが、今日はすこしばかり気分が違う。
 たぶん、今日のほうがアガッテイル。
 付き合い始めのカレシが来るとわかっていてジーンズで外に絵をかきにいきそれを見つけられてしまった自分を採点するなら、32点くらいか。不安にさせてしまった一因はそこらあたりにもあるの…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
114
 
 
 そこで間をあけられた。
 昔から、男の子とつきあうと、揉めるわけではないけれど、何らかの形でこの問題に触れてこられる。オリエンテーション能力の低い男性とデートが続かないのは、どうやら私が先を歩きたがるかららしい。でも、自分がどこにいるか確認しないと落ち着かないのだ。ただ今回は。
「ミズキさん、東西南北がいつでもアタマに入ってるよね?」
「そうだね。僕もすごく気になるんだよ」
 苦笑でこたえられた。このひとは工事現場のしたを歩かないし電車の乗り口も選ぶしひとの動きもよく見てる。その調子で色々と見分けら…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
113
 
 
 それを聞いて落胆の声をあげた私へと、ミズキさんは笑いながらもきっちりとフォローしてくれた。
「お母さんのいうことは姫香ちゃんの幸福を思うからであって、仕方ないでしょう」
「でも、今さら頭のいい子かと思ってたのにっていうのはナイと思わない?」
「それは、ご両親のほうが一枚上手なんだよ」
 微苦笑まじりでこたえられた。たしかにそうかもしれないのだが、しかし、納得いかない。
「親御さんの希望よりもずっといい子に育っちゃったんだろうけどね」
 多少の哀れみをもって結論されて笑いそうになった。そして、それではい…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
112
 
 
 ふう、と息をつくと気遣わしげに名前を呼ばれた。私は頭をおこし、しっかりと彼をみて続けた。
「だいじょうぶ。心配しないで。やめないから。時間とお金の無駄になってもいいの。父のいうことのほうが正しいともわかってる。でも、私、誰に言われたわけじゃないのに自分から始めて、しかもやめないできたことって、絵をかくことだけなの。あ、本を読むもあるけど、それは親の影響もあるし。お茶は続いてるけど、自分からしたいって言ったことじゃない。ピアノもお習字も続かなかったし、仕事もやめてしまったし、男のひととの交際も続かな…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
111
 
 
 それから一緒にお風呂に入りたいと甘えるのを、えいえいと無理やり先に押しこもうとした。こちらはどこをどう見られても恥ずかしくない美貌を持ち合わせていないのだ。
 ところが彼は、一緒ならともかく先にシャワーやお風呂に入るのは順番が違うと言いだした。滔々と持論を展開しそうな勢いだったので真っ向から反論しようと顔をあげると、まあ今日はいいけど、と思ったよりあっさり引き下がった。気が向いたら、という言質をとっているかららしい。言わなきゃよかったよ。
 ともかく気を取り直して、明日の準備にとりかかる。和室にお…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
110
 
 
 あわてて問いただすと、頭をふって否定した。ウソはないと思う。でも、瞳をのぞきこむとまるでごまかすように、あれが消えちゃうのはもったいないね、と口にした。ただの落書きだよ、とこたえると、そうかな、あれにはものすごく気が入ってるよ、と返ってきた。
 部屋に入りソファに座らせると、彼は足下のボストンから綺麗にリボンのかかったお菓子の箱とシャンパンを取り出した。贈り物尽くしだとお礼を言ったとたん腕のなかにくるまれたけど、お花、というとキスひとつですぐに手を離してくれた。
 クリスタルの花瓶を引っ張り出して…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 夜間
109
 
 
 蝋石を手にもった。
 従兄の子供のために買ったものを、マンション横の駐車場で私がつかって遊んでいる。はじめの躊躇いの大きさに反比例して、かきだしたらとまらなくなった。
 気に入った線を、ひけなくなっていた。
 しゃがんで後ろへ足をくりだすたび、その負荷がかかる。ぎこちなさの表れのまま強く弱くなり、きれぎれの白線のおぼつかなさにいきりたつ。すると余計にぎざぎざする。気を落ち着けて腰をあげ、見おろす視線で検分し、呼吸をあらため、足運びの速さや持つ手の握り、肘の力加減を飽きずにためしてくりかえす。
 十分…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 昼間
108
 
 
 途中でいちど、ミズキさんから短い電話がはいった。なんのことはない。夜、なに食べたいと聞いてきた。着たきり雀なんだからフレンチとか予約したりしないでね、と釘をさした。服くらい買えばいいよと言い出しかねないのであわてて、うちでゆっくりしたいと正直に話した。疲れていた。
 彼はわかったとこたえ、じゃあ僕はこっちでご飯食べて行くから、と断りもいれずに口にした。すこし遅くなる、という声が甘く耳朶を揺らした。強引に聞こえないところが、それが当然だと思えるのがうれしかった。彼に理解されていると感じることも快かっ…[全文を見る]

id:florentine
遍愛日記のことを語る

3月24日 昼間
107
 
 
 私は喉をおさえて、すとんと椅子に腰かけた。膝に、震えがきた。やっぱりミズキさんに何か言ってもらえばよかった、またはそばにいてほしいなんて考える自分がいた。びっくりだ。
「センパイ?」
 ここで言うのがいちばんだと思った。察しろというのは酷だ。
 その瞬間、どーん、という花火の音が頭上で弾けた。今になって思い出した。あの学園祭の夕方、頭の後ろで花火が鳴っていたとき、なんで泣きそうになったのか。
 断って気まずくなるのがイヤだからとか、アサクラ君を勘違いさせた自分が恨めしかったからとか、そんなんじゃない…[全文を見る]