id:florentine は
犬&コロリのことを語る

こんにちは。ひとさまのところに長文投稿すみません。

>村上春樹がすぐに思い浮かびますが、
 
そうなんですね。わたし、『海辺のカフカ』しか読んだことなくて、ごめんなさい。
あれも印象が薄いといえば、うすい気もしますけど……なかなか同じ土俵でおはなしできないですね。
でも、そうやってぱっと通じないほうが、コミュニケーションとして「当たり前」の気がして安心するところもあるのですが(笑)。
 
ディティールや情報量の件ですと、
 
『リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか』 (講談社現代新書)
東 浩紀 (著), 大塚 英志 (著)

に、純文学の作家が作品の10割情報をもっているとして、ラノベは5,6割みたいなはなし(正確な引用じゃないので数字とか違ってるかも。スミマセン!)が出てきて、そうなのかなあああ? って大いに疑問を持ったりしたんですが(笑)。
ただし、「感情移入」と「データベース化」等のはなしは、たしかに地続きで考えるべき点とは、考えています。

それと、いま思い出したので。
絵画上の技法において、画面上の人物のうち誰かがこちらに目をあわせる、あからさまに鑑賞者側を見ていることがありますよね?
あれは、ルネサンス期のアルベルティというひとが書いた『絵画論』では、鑑賞者に「感情移入」させる、または「臨場感」を与えるための手法として取り上げられていたはずです。
絵のなかの出来事にコミットメントする、って感じでしょうか?
目の前でそれが行われていますよ、的な。
「視線の誘導」ですね。
 
ただしこれを一人称ととるのか、三人称ととるのか。
たとえば、『キリスト降誕図』だと、主役はイエス様ですよね。それを取り囲む脇役のひとりがこっちを向いて、あなた(鑑賞者)も今ここにいるって視線を投げかけたとき、そのひとは「イエス」になるわけじゃないと思うのです。参加者にはなりえる、でしょうけど。
基本、主題がある場合の「見る」という行為は「三人称」なようですが(言い切って大丈夫かな?)、フェルメールの描く絵は、ほとんど「一人称」だと思うのですよ。
それは、明らかに「見る」という行為を積極的に主体者として選び取らせようとする、画家の意図があるっていうのかな?
(わたしはフェルメールを凄いと感じていますが、好き、というには躊躇いがある。好きって言えないのは、あれが究極、女性という客体を「覗き見」する絵だからだと思うのです。わたしはどうも、うまく、鑑賞者側に感情移入できないんですよ。いえ、できないわけじゃなくて、あの技術に無理やりさせられてしまって、それはそれで快いこともあるのですが。アンビバレンツっていうんでしょうかねえ? 素直に大好きって言えないんだよなあ)
こう考えると、ある意味これらは「芸術創作論」「技術論」なのかな?
(だとしたら、わたし、もっとがんばんなきゃ 笑)
  
「主客」とからめて、「人称」問題は「日本語」の場合だとまた複雑ですし、視覚情報と文字情報ではまた違う原理が働いていそうですし、杳として先が見えませんが(笑)。
気がついたことからちょっとずつ、考えていければいいなあって思ってます。
何かありましたら、また、お願いします。