審判の日 悔悛
166
私はそこでふっと思い出し笑いを浮かべた。それを思い返すとほんとうに面白かったのだ。
「さっき来た天使のひとりがね、私のこころを読んでくのよ。でもね、それってただの上辺のことなの。氷山の一角どころか、この地球の海という海の、たったひとつの波をとらえたかどうかっていう感じよね。だから上司みたいな天使に叱られてておかしかった。あんなキラキラした存在だって、全部は読みきれないんだなって」
卑近な問題について語ろうと思っていたはずなのに、天使に話題がもどってしまったことで話を途中にすると、ミズキさんは頤に手をあ…[全文を見る]
審判の日 悔悛
165
私は身体をひねって紙コップをテーブルにおいて、両手をひざのうえに組み合わせて目を閉じた。
「明日の天気をあてるような他愛無いことだけど、でも、自分にはなにか特別なしるしがあるのかもしれないって思ってた……。なにかどうしようもなく凄いことがあるんじゃないかって、実際はなんにもなかったけど、バカみたいにあると思ってたのよ。願っていたっていうのかな。些細なことで、大した能力じゃない、でもヒトトチガウ。そのことでずっと、自負心と負い目の両方に引き裂かれてとても、苦しかった」
彼がとなりの椅子をひいて腰をおろした…[全文を見る]
審判の日 悔悛
164
「どういう、こと……」
「一昨日、電話がかかってきたのよ。地球人類が困ってるとかいって、なんだか《選ばれし者》にリストアップされてたらしくて、なんかわかんないけど、お迎えが来る確率は五割って言ってたから、だいじょうぶかなあって思って」
「五割って、ぜんぜん大丈夫な数字じゃないよ!」
ミズキさんが真剣な顔で怒っていた。そうか。半々ってのは世間ではそういう認識なのかと、頭のすみでちらと思い、私はあちこちで約束を破りまくる女だと反省した。
「だいたい天使って何者なの? 宇宙人?」
びっくりするほどイライラした口調…[全文を見る]
審判の日 悔悛
163
お店の正面から入ると、初めて見かける眼鏡の男の子がお店番だった。
私には大きすぎると思う音量でガレージロックがかかる店内に、お客様は帽子をかぶったスレンダーな青年がひとりだけ。宇田川町あたりの有名なお店とちがって、ここはいつもすいている。スポットライトに照らされた長方形の室内はどこもかしこも四角い印象で、つくりつけの棚のかなり高い位置までレコードが並べてある。前に、圧迫感があって気になると言ったら、あれがタマンナイんすよ、と浅倉くんはこたえた。なるほど、青年の視線は壁に釘付けだ。
レコード屋さんとい…[全文を見る]
審判の日 未告知
162
「その話はまたの機会にさせていただきたく存じます。色々と不測の事態が生じておりまして。今日のところはこれで」
その言葉が終わると同時に、ガブリエル、と巻き毛の少年天使をさして口にした。呼ばれたほうはおずおずと私を見た。
「恐れ入りますが、お選びいただけますか?」
なにを選ぶのかはすぐにわかったけれど、このどう見ても下っ端ちゃんが、いかにも上司っぽいひとたちの履物を自由にする権利があるのだろうか。それに、ガブリエルといういかにもな名前に笑いそうになるのを堪えるのに苦労した。しかも、そんな私の表情を、この…[全文を見る]
審判の日 未告知
161
天使というのが、妙に嵩高い生き物だと知ったのは、それが初めてだった。
翼があるというのは、しかもあんな場所にくっついているというのはどうやっても不自然なのだ。
「深町様、開けてください。サインしていただかないことにはお連れすることができない仕組みでして」
真ん中の、金髪碧眼のいかにも天使らしい天使がにこやかに口にした。笑顔なのに、押しは強い。なんだこのひとたち。新手の新興宗教の勧誘か、訪問販売人かしら。
それに今にして気がついたけれど、こないだ夢に出てきた天使とちがってみんな非武装で、もちろん両翼…[全文を見る]
審判の日 未告知
160
ここにいたいと望む気持ちは、たしかにある。けれどそれは、自覚した瞬間に、あの罪悪感という苦悶に道を譲る。見ないようにしてきた分、浅倉くんが怪我をした今、背中に重石を乗せられる痛みを伴って現実化した。
私が悪い。何もかも、ちゃんと出来なかった自分が悪い。
涙の筋を丸めた指の背でぬぐい、頬を掌でそうっと撫でて両腕をからだに添わせるようにして抱きしめる。自分で自分を叩きたくなるときは余計に優しく触れる。いまここで自身を痛めつけてもしょうがない。私は冷静だ。だいじょうぶ。考える力がある限り、だいじょうぶ。
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審判の日 未告知
159
「う、ん」
ミズキさんからだった。覚醒をうながされるほど危機感のある声じゃない。ということは、まだ会ってないのだろうか。開かない目で時計をつかみ寄せて見る。九時三十七分。
「浅倉、怪我したからすぐ来れる?」
さすがに、目が冴えた。声をあげる前にミズキさんがさらりと、僕が階段から突き落とした、と口にした。
「え、なに」
「僕が突き落とした。あいつ頑丈で足首の捻挫だけでどこの骨も折ってない。脳波もとったし異常はない……」
声が途切れたので泣いてるのかと思ったら、もめていた。なに電話してんだよ、という浅倉くん…[全文を見る]
審判の日 未告知
158
目が覚めて隣にひとがいないことで、吸い込んだ空気がやけに冷たいように感じた。まして薔薇の花びらの散り敷かれたベッドというものは、朝日で見るにはしのびない。なにしろ白いシーツにロイヤルハイネスの淡いピンクはあまり映えないのだ。しかも、すでにしてところどころ萎れて茶色になっているのが妙に「落花狼藉」を思わせて気恥ずかしい。深紅なら、朽ちてもそれなりで気にならないのに。
まあ、それもこれも致し方ないことだ。
花が植物の生殖器であると教えてくれたのは澁澤龍彦の書物であった。思春期特有の気取りを思い返しなが…[全文を見る]
3月25日
157
すると浅倉くんがすぐさま深々と頭をたれて、努めさせていただきますとこたえ、こちらの手から紐をひったくりそのまま私を担ぎ上げた。
「アサクラくんっ」
悲鳴じみた声で名前をよんだのに、彼はまるで頓着せず駆けるような勢いですすんでいる。視界がグラグラ揺れて気持ち悪い。もう少しこう、なんというか、鄭重に取り扱う気持ちはないのかと文句をつけようとしたところでベッドに放り投げられる。
「ちょっと!」
乱暴だよと続くはずが、浅倉くんの口のなかに飲み込まれる。むー、という濁った音のあいまにカーディガンが引き剥がされ、腰浮…[全文を見る]
3月25日
156
とはいえ、私は私で胡乱なことを考えていた。
浅倉くんのタイプは、星の王子さまの「バラ」、なんだ。このひとってほんとにマゾなんだな、と心の奥底から感心した。それだけじゃなくて、やっぱり私を勘違いしていることはちっとも訂正されていないと呆れてもいた。あの花は、「根は、やさしい」のだぞ。というか、あのおはなしは世界で聖書の次に読まれているというだけあって、実のところとってもSMなディスコミュニケーション悲恋小説で、人間てそうはなかなか素直になれず成長もできなくて、そうやって不幸が連鎖して増殖されていく過程を克明…[全文を見る]
3月25日
155
なんというか、龍村くんの妹さんは大きな花束を抱えてこそ似合う、すこぶる付きの美人なのだ。そういう古風な表現で形容しても少しもおかしくない、銀幕の映画女優みたいに時代がかった美少女だったと記憶している。彼女ももう、三十ちかくなっただろうか。そりゃあ焦るよな、と自分の過去を鑑みて思う。
そういえば、あのふたり、どうなるんだろ。どうなるというか、いろいろ問題はありそうだけど。でもまあ龍村くんのことだから、実はそんなに心配していない。敵を敵と見定めたならば、戦い方を知っているひとだ。彼には神も仏も法律も何もナイだ…[全文を見る]
3月25日
154
思い当たるのは、それだけだった。べつに告白はされてないと言おうとしたところを遮られた。
「花、もらってさ。その男のこと好きじゃなかった?」
さすがに、なんとこたえたらいいかわからなかった。
ただ呆然と目の前にいるひとを見つめると、浅倉くんは、私のかつてない動揺と困惑に気づいて遠慮がちに苦笑した。気遣われているのをはっきりと感じた。実のところこの質問には気持ちの準備がまるでなく、私はきっと、本当に困りきった顔をしていたに違いない。
セックスについて問われるだろうとは理解していた。あれだけ緊張してしまったの…[全文を見る]
3月25日
153
こないだ大学で話したときはこんな言い方じゃなかった。何があったか知られたのかと怯えたけれど、金曜の講義が一緒で何度も声かけられたんだって、と問われたときにそうではないとわかった。懸命に思考を巡らして、あの一団の誰かが告げ口したのだと察した。
あの男が言うはずはない。なんだかそう感じた。
あいつに足、触られたのかよ。
これは、来須ちゃんが喋ったのだろうか。それとも、上に座っていた人間には見えたのだろうか。ウソをついてもしょうがないので、そこはうなずいた。
殴っておけばよかったと吐き捨てる横顔を仰ぎみた。…[全文を見る]
3月25日
152
あの後すぐ、図書館でも見かけなくなった。カウンター横に視線を巡らすと、マダムがジンジャークッキーの入った包みを差し出してくれた。御礼をのべて頂戴し顔をあげると、たくさん食べてくれる人がいなくなっちゃったから、と苦笑した。やっぱり、とつぶやきそうになって、私はあわてて口をつぐんだ。
掌のうえの、レース模様のプリントされた透明の袋を眺めながら、彼のことをなにか尋ねたいような気になっていた。でも、実際には何をききたいのかさえわからなかった。自分のせいでバイトを辞めたなどと思うのは自惚れだろうとさすがに理解してい…[全文を見る]
3月25日
151
痴態、嬌態、なんでもいい。彼の腕に支えられて背を反らして震えていた。自分を攫っていこうとする感覚の凄まじさに怯えていたけれど、その恐怖感さえ欲していた。それに、しがみつくと抱き返されるのが心地よかった。
呼吸を整えながら目を閉じていると、肩のうえで明くる日の予定を聞かれた。午前中に面接があるし午後は講義とこたえた。おれもサボれないや……家、門限あるんだよな、泊まれないのか、いきなり外泊は無理だよな、明日はラブホでもいい?
きゅうに現実的な話になった。身体の熱がひきはじめると、自分が何をしたのか理解して恐…[全文を見る]
3月25日
150
私は塾教師っぽく見えるようにと配慮して、黒の前立てのノースリーブワンピースにグレーのジャケットを着ていた。ジャケットはすぐさま脱がされて掃除用具入れの壁に投げあげられた。タイルに触れた二の腕に鳥肌がたった。おろした腕の置き所もなくて、爪の先で溝をさぐっていると左手をとられた。手首の外側に突き出た突起を口に含まれて、その骨の名前をなんというのか知らないと考えながら、腕の内側を這い登るもののするに任せて息を継いだ。
腋に顔を埋められたときはくすぐったさに悲鳴をあげて身をよじった。声をあげて笑うと、身体のこわば…[全文を見る]
3月25日
149
そのとき、頭上で足音がした。灰色のスーツに濃い緑のエプロンをした例のマダムが階段をおりてきて、私たちを横目にして出口へとむかった。あからさまな職務怠慢のサボタージュを見咎められたというより、ただただ間抜けだと思われたようだ。バイト君、こんな人目に立つところで何やってるの、という呆れ気味の、それでいて十分に好奇心に満ちた笑みがブラウンベージュの口許に浮かんでいるのを見逃さなかった。軽い靴音が遠ざかるのを耳にしながら、あの絵の床は大理石なのだろうか、とリノリウムの滑りやすさを思った。
どうやってこの場から逃げ…[全文を見る]
3月25日
148
自動販売機の前で迷っていると後ろから来て、なに悩んでんだよ、トロトロしないで早く選べと焦らせるので素直にどくと、彼と同じ甘い果物ジュースを押しつけられた。首をふって断ったのに、机のうえに置かれていた。ジュース一本、クラスの男友達ならもっと気持ちよくおごってくれる。しかも、そういうときに限ってレファレンスやカウンターに彼の姿がなかった。帰り際に見つけて声をかけると、温くなったのなんていらないよ、と眉をあげた。家で冷やして飲めばいいじゃないと顔をあげると、持ち歩くの邪魔と笑って、家で冷やして飲めば、と背中をむ…[全文を見る]
3月25日
147
そいつは左手に持っていた紙パックをテーブルにおいて、本を差し出してきた。受け取る右手を左手でつかまれ引き寄せられた。たしかに人目はないけれど、まったく誰も通らないという場所ではない。それに、晃が来ることは間違いない。私は暴れもせず、右手につかんだままの文庫本が相手の脇でひしゃげて丸まる音を聞いた。背中に腕がまわった瞬間、すぐにはなれた。事務室のドアが開き、職員がふたり、自販機へとむかった。
私は元通りの形を取り戻した本を見おろして、意外に丈夫なのだな、と感動していた。それと同時に、捨て台詞なら幾ら吐いても…[全文を見る]