3月24日 昼間
106
なにを言われても、とにかく耐えようと覚悟した。でも彼はなにも言わなくて、そしてとくに怯えたようすもなく、けれど腕に強い力をこめていた。あまり性的な雰囲気でもなくて、かといってしがみつく子供の健気さもない。なんだか不思議な気がした。ああ、そうだ。今日のミズキさんは、私には、ちょっとわからないのだ。
とても近くになったようで、ふと遠巻きにされるような。近くなった証拠に、以前ほど神経を尖らせてもいないし自分の想いをひたすらぶつけてくるわけでもないことは間違いなくて、素の声も聞こえているのに、でも……。
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遍愛日記のことを語る
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3月24日 昼間
105
コンビニに寄るから先に行って、とビルのすぐ前で言い渡された。途中でいくらでもあったのに、と首をかしげそうになったもののうなずいて見送り、ひとりで階段をのぼる。
隣にひとのいない空白に、そして再会したときの記憶に、浅倉くんの影が揺れた。胃が痛いと口にした私のすぐ横に立ち、こちらをうかがおうと見おろしてくる視線の熱さにうざったいと感じたことを思い出す。
鍵をあけて電気をつけて空気を通す。看板を抱えて定位置にしつらえ、戻ってきて留守電を解除した。伝言なし。OK。
ため息とともに椅子に腰かけたところで…[全文を見る]
遍愛日記のことを語る
3月24日 昼間
104
そこは小さくうなずいた。
「僕、シェスタのときにごろごろして抱き合うのが好きなんだよね。お昼食べてすぐ働くって絶対におかしいよ」
私が地球や人類の未来へ想いを馳せているあいだ、ミズキさんはまったく別のことを考えていたようだ。
「ミズキさん、その習慣は日本には馴染まないと思うよ?」
昼過ぎに個人商店が閉まっているのが当たり前の南欧じゃないんだから。今時はきっと、そういうところも少ないんじゃないかなあ。
「でも、葡萄棚の下なんかで軽く一壜あけてから鎧戸をおろしてするのは愉しいよね」
そこはどうなのか…[全文を見る]
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3月24日 昼間
103
ミズキさんのお父さんはすこし猫背で、痩身をチャコールグレーのスーツに包み、彼よりもずっとやわらかな声で話すひとだった。父と僕、ぜんぜん似てないんだよ、と妙なことを口走ったけれど、気にするほどとは感じなかった。
それとも、初めからそう聞かされていたせいなのかな。そこが、わからない。
とはいえ交際相手の親に会うという神経質にならざるを得ない出来事にも、余計なことを考える時間がなくて正解だった。また先回りされたと気づいても腹は立たなかった。そうでなければ私のことだから、会うと言ったくせに、いくら三十…[全文を見る]
遍愛日記のことを語る
3月24日 昼間
102
掃除機の音が聞こえたようでいったん目をさましたものの、見慣れない天井がどこか考えようとする間に、また眠りに落ちた。体温でぬくもったお布団の心地よさは格別で、いつもは隣にひとが寝ていると熟睡できないというのにその日は違った。疲れきっていたせいで、よく眠れた。夢もみなかったと思う。そうしてまだ寝ていたいと貪るように寝返りをうったのに目が開いたのは、おはようとキスされたからだった。
「無理やり起こしてごめんね。父が、もうすぐここに来るっていうんだよ」
私はまだよく事態が把握できておらず、横になったまま…[全文を見る]
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3月23日 宵越
101
反論する気もおきなかった。これはヒドイ辱めではないかと思いながら頬が火照るのを感じた。相手の顔が見られないのは自分だと気がついて、諦念というのを思い立ち、慣れないその態度にとらわれてみようと目を閉じた瞬間、よいしょ、と声がして抱き起こされた。
「もうちょっと、飲もうか」
彼は私の髪をわざとくしゃくしゃと乱すように撫でて、頬にキスした。
「ごめんね。言質をとって安心したから言うみたいで悪いけど、僕は愛して欲しいばっかりで、姫香ちゃんにだけ覚悟を迫りすぎたね」
「ミズキさん」
「ごめんね。もう絶対にしな…[全文を見る]
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3月23日 宵越
100
私は痛むこめかみを押さえながら膝を起こし、無言のまま立ち尽くす相手の手から携帯電話を取りあげた。すでに切れていて、留守電にきりかわっている。
浅倉くんのことだから、きっと他愛無いことを口にしているにちがいない。もう家ですか、今日はスミマセン、帰ったら続きを、や、デートしようよ。
そんなところ、か。それとも。
今どこにいるの、ミズキんとこじゃないよね、とあの野生動物なみの勘で声を震わせているかしら。
まあ、もう、どっちでもいい。
私が携帯電話の電源を切ると、彼はあからさまに眉を顰めた。
「電池…[全文を見る]
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3月23日 宵越
99
彼がすこし、そのまま聞いてもいいか問うような仕種をした。私は、そういうミズキさんの濃やかなやさしさを快いと感じながら続けた。
「すごく可愛い女の子ではきはきしてリーダーシップのある人気者で、私は仲良くなれてうれしかった。でも、お絵描きの時間には、その子は私の絵を破るの。クレヨンを折ったり、邪魔をするわけ。私はその子が好きだったから、じゃあ、かくのをやめればいいのに、やっぱりやめないんだよね。けっきょく私は登園拒否になったらしいんだけど、自分ではあんまり覚えてなくて……」
ミズキさんは合点がいったよう…[全文を見る]
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3月23日 宵越
98
言ってしまうと、なんてヒドイ女なのだろうと自分でもうんざりした。それに、男が、ありのままの自分を愛してくれるだなんて夢物語を信じてはいない。彼らにそれを求めるのは無謀だ。
「うっとうしいし暑苦しいっていうか痛いっていうか、加減がその……なってないって、思っちゃうの。それで、つまりね、そういうふうにイロイロ注文をつけたくなってしまう、どうしてそうしてくれないのって言いたくなっちゃう自分が、凄くすご~く、みっともなくて嫌いなの。わかる?」
ミズキさんは、じっと、いつもの瞬きの少ない両目で私を見つめていた…[全文を見る]
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3月23日 宵越
97
「浅倉は」
疑問形なのかわからないものの、気にしているならこたえようと思う。
「浅倉くんは、私じゃなくてもだいじょうぶ。飛び降りたり首吊ったり夜の高速むちゃくちゃ飛ばしたりしなさそうだから。ミズキさんは、なんかやらかしそうで不安なの」
「それが、理由? それは僕が生きてけないって脅したからだよね?」
すなおに、うなずいた。
「ねえ姫香ちゃん、どうして浅倉はだいじょうぶだって思うの」
「だって、しぶといもの。あのね、ミズキさんは誰とでも付き合えるって感じじゃないけど、浅倉くんは誰とでも平気なタイプだもの…[全文を見る]
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3月23日 宵越
96
彼は額に手をあてて、口にした。
「姫香ちゃん、だってそうでしょう? 君が今までに誰とどうしたか僕は知らない。まあ僕みたいな男女どちらでもOKっていうひととは初めてかもしれないけど、それでもすることはそんなに変わらないとわかってるはずだ。なのに君は緊張してる。その場合は、理由は二つしかないんだよ。すごくしたいか、ほんとはしたくないか、どっちかだ」
思わず、呻き声をあげそうになった。
それでも、いちおう、言っておいたほうがいいと白旗をあげる気分で口をはさむ。
「……あんな啖呵きっておいてなんだけど、実は…[全文を見る]
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3月23日 宵越
95
「こと恋愛においてはね。どうしても陶酔感に欠けるところがあるから」
彼はそこで吹き出すように笑った。遠慮会釈のないようすにむくれると、でも、男のことはよくわかってるよね、と真顔で返された。
どうこたえようか思案するあたりに、たしかに事実かと納得した。私には、ありのままこたえたほうがいいという発想がない。ウソはつかないけれど、自分の思っているとおりにこたえても相手が、男が、喜ばないという訓練が備わっていた。
「僕にはすごく蟲惑的だけど」
「コワクって最近あんまり聞かない言葉ね」
雰囲気を壊すつもりはな…[全文を見る]
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3月23日 宵越
94
それを聞いても、足が動かなかった。こんなこと、初めてのときにだってなかったというのに、変だ。まああのときは、とりあえずしてしまえばいい、くらいのヤケッパチな気持ちのせいだったかもしれないけれど。
「座れば? 畳の上なら、そんなに冷えないでしょ」
お言葉にはすなおに従った。主導権を握られるどころの話ではない。
「僕はそのひとが音を楽しみたいって思ってるんじゃないかぎりは、好きなひとといるときは音楽はいらないって思うんだよね。相手の声や息遣いに集中したいじゃない?」
彼はにこりと笑ってこちらを見おろし…[全文を見る]
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3月23日 宵越
93
夢だと思う。
片翼の天使がやってきて、探し物を手伝えと私に言う。竜退治の聖ミカエルのようないかめしい鎧兜を身にまとった堂々たる美丈夫のくせに、荘厳とは程遠く口が悪い。
探すのはその背中の羽根の片割れかときくと、傲然と首をふる。ばか者とののしられ、こいつ、使いものになるのか、と舌打ちされた。面と向かってこいつ呼ばわりで罵倒され、腹が立って当然のところだというのに、天使のようすがあまりに切羽詰まっていて、ひどく心配になった。
時間がないのだ、早く見つけ出せ、と天使がイライラと口にした。
だから何を…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
92
「姫香ちゃん、そういうこと言っちゃ、ダメだよ」
「なら、今から私がそっちに行く」
「なにが、あったの?」
ほとんど怯えるような口調に、私は拳で涙をふいた。今になってこわがるとは情けない。
「ミズキさんのほうがほっておけないって感じる理由じゃダメなの?」
「それは……僕が君を」
うろたえている。遅いって! 今さら自分を恥じるなら、さいしょっから言うな。込み上げる怒りに、声が震えた。
「そ、う……だよね。ミズキさんはひとのこと脅したんだよ。銃を持って私に向けて使うんじゃなくて、自分の頭につきつけて言うことをきけ…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
91
口を出た問いかけの大胆さに驚いていると、相手はさほどのことではないようすでこたえた。
「となりで寝ててほしいひと」
私が沈黙をたもっていると、
「姫香ちゃんて男の子みたいに寝相わるくてゴロゴロして布団はいだりして、見てると飽きなくて面白かったよ」
「ちょ……やだ、見たのっ」
うん、と悪びれる様子もなく頷かれていた。襖開けられれば絶対に目を覚ますと思ってたのに……私が声をなくしていると小さな吐息が落ちた。
「君、僕がすぐそばで寝転がってもぜんぜん起きなかったよ。もちろん音は立てないように気をつけたけどね。…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
90
その後、八重洲から桜通りを歩いて銀座一丁目をぬけ、途中のイタリアンカフェでラザニアとサラダとグレープフルーツジュースという夕飯をとる。今日は豪勢にひとりで鰻を堪能しようと思っていたのに、あえなくその計画は頓挫した。どうしてこのあたりのお店は八時をまわると閉まるのだ。朝が早いのかなあ。鰻屋さんで飲むの、好きなんだけどなあ。
子供の頃にはうなぎ嫌いだったのに、いまは好き。老舗の名店に行ったら、好きになった。それ以来もうスーパーの安売り品だって食べられる。不思議だ。
いったんハードルを越えてしまえば、…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
89
八時をまわって、今日の売り上げは二万円。赤絵の染付け皿一点。白髪交じりの上品なご婦人のお買い上げだった。報告のために浅倉くんに電話を入れると、ドライブモード。留守電が苦手なのであわてて切って、メールに切り替える。売り上げとお客様の人数や荷物の数など気がついたことを思いつく限り入力して、さて、あとは何を伝えればいいのか考えた。いったん保存して、看板をあげることにした。
相手が会社のひとなら、はじめと終わりは定型句だ。友達でも、まあ、だいたいのところは状況で決まっている。読み返すとむちゃくちゃ仕事モ…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
88
それはお馴染みの、お別れのときの質問だった。本当になりたいもの、いちばんイヤだったことを聞かれた。今度は。
「なに」
「姫香にとって『大人になる』って、どういうこと?」
私は肩で息をした。目を閉じて、ゆっくりと、自分がもっとも美しいと思うものを瞼にうつしだしながら、こたえた。
「ここを、この世界をまるのまま愛してるって思えること。ここはこんなに青くて美しいところだっていうのに、この世界は自分の願うとおりの形をしてなくて、あの見た目通りのところじゃなくて、それでもここにいたいって思えることが、ここを…[全文を見る]
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3月23日 夕刻
87
獏、離れいてるあいだに何かあったのかしら。なんだか前よりすれたというか、勇者の斡旋業というより、はっきりいって遣り手婆になってしまったみたいよ? どうしたんだろう。あっちの世界も世知辛いのかな。それともお互い好きだなんて言ってしまってもう遠慮がなくなったせいなのか。
自分のことを考えるはずが、獏の微妙なかわりようばかり気になって、集中できない。獏は、私にそのことを話さないとわかっていたから。
「ねえ獏、いったん切るんじゃダメなの? 私の人生のことでしょう? 落ち着いて考えさせて」
「姫香、悠長なこ…[全文を見る]
/遍愛日記