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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
46
 
 
「ちょっと、待たない?」
 私は頬に髪がふれて痛いほど首をふった。結論を迫られても不思議ではないところに来ていたことに面食らった。
「そういう曖昧な表現ではぐらかすのはよくないよ」
「仕事なら、ちゃんと期限決めて返答するよ」
「じゃあ、仕事だと思って考えてよ。契約事項が必要なら今ここで列挙する」
「シゴト、なの?」
「僕の人生でいちばんの重要事だとは、自覚してる」
「ミズキさんて、お仕事が何より大事って思ってないんだ……」
 彼がわざとらしく嘆息した。
「恋愛以上に大切なこと、人生にないでしょう」
「ええええ?…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
45
 
 
 実際のところ、まともに付き合うというレベルにも至らずにひとりは海外留学、次は転勤という次第になった。四国に転勤した彼は私のほうが三つ上で、深町さんは田舎に引っ込むっていう感じじゃないよね、と牽制してきた。別れを切り出されたのだと感じてうなだれた。遠距離でもいいかなあと思ったりしたのに、とプラットホームでつぶやきそうになって焦った。そしたらすぐに電話すればいい、でもそこまでしたくない。正直、二十八歳の自分が本当に彼と結婚したいと思っていたのかわからない。ただ、嫌なところを見せたり見られたりしなかった…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
44
 
 
 え、発音、綺麗すぎて聞き取れないんだけど、でも、ああ、それって不能……えっと。
「アタワズさん、のこと?」
「あた……、ああ」
 ミズキさんが本気で受けて、弾けたように身体全体を震わせて笑っていた。
「君、どうしてそう、いっつも面白いこと、言うの?」
「ただたんに読み下しただけだよ」
 それってきっと、男のひとにとってはすごい重大事なんだろうということは想像できた。オトコというのは一般に、立てておいてあげないとちっとも役に立たない生き物なのだ。へこましてイイことはひとつもない。常に貶められ挫かれつづけてそれ…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
43
 
 
 冗談のような、本気のような、どうとも取れる言いっぷりに反応できなかった。
「あ、フリーズしてる」
 くすくすと、いつもの可愛い顔で笑っているのを見て肩を落とした。頬にかかる髪を耳にかけながら叱るつもりでいた。
「ミズキさん、あんまりそういう冗談は」
「冗談でそんなこと言ったらセクハラだよ。君のことを想って夜の高速アクセル踏みっぱなしで飛ばしてきちゃうくらい、そこは本気」
 目が、笑ってないんだけど、このひと。
「姫香ちゃん、こんな夜中に男を家に入れちゃダメでしょう」
「待って。ゲイだって」
「そこはこない…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
42
 
 
 あわてて首をふる。
「違う。女の子たち。美少年キャラっていう感じで人気あったの」
 ふ~ん、とミズキさんが鼻を鳴らした。それじゃ買い戻すっていうわけにはいかないね、と口にした。 
「……どうして、わかるの?」
「何が」
 なにが、ときたよ。わかってるくせに!
「それ、どうして私だって思うの? 金髪だし男の子だし顔だってぜんぜん似てないし」
「画家の自画像って見ればわかる」
 こともなげにこたえられた。たしかに。
 年齢ごとにどれも素晴らしいレンブラント、美女よりも色っぽいナルシスティックなクールベ、なんだかイ…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
41
 
 
 そこは遠慮なく、笑うことにした。その「も」が、他に誰をさすのか考えをふりむけようとしてほんとにバカらしくなった。けれど、そうやって笑っていたはずが、喉の奥になにか熱いものがこみあげそうになって身震いした。
 ミズキさんはそんな私を黙って見おろして、何も言わないでくれた。とても優しくされたような気持ちがして嗚咽をこらえるのが難しくなったけれど、お客さんがいるのだという意識で自分を立て直そうとした。
「お風呂入る? それとも寝る? 明日、何時に出る? お腹すいてたらお茶漬けでもつくろうか?」
 彼は私の問…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
40
 
 
 私は聞いているとちゅうで冷凍庫をあけ、茶漉しを取り出した。指先に痛いほど冷えた銀色の茶筒の蓋をあけて中身をたしかめる。深い緑色は右手につかんで傾けると漉したばかりのやわらかさで手応えなくさらさらと、中央の山が崩れた。
 干菓子なら、ある。
 ポットのお湯を鉄瓶に戻して沸かす。戸棚から、それでも少しはまともな黒楽茶碗を手にとった。ちらりとミズキさんの手を盗み見て、こういう手には大井戸茶碗みたいなものが合うのだと、妙に悔しい気持ちがした。
 お茶は、男がするといい。男女の別ではなく勝負事にこだわる質のほう…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
39
 
 
 一亭一客。
 一対一の点前くらい難しいものはなく、お互いの気持ちがぴたりと添うことで、無上の歓びが訪れるものという話だが、はて。
 その夜の客は小ぶりのゴヤールのスーツケースを持ってあらわれ、開口一番、あれ、パジャマじゃないんだ、と笑った。思わず眉をひそめたが、とりあえずクルマを拭いて部屋にあげないことには始まらない。
 予想と違いミズキさんは弱っている様子は微塵もない。深夜だというのにまったく着崩れ感のないスーツ姿だ。正直、尾羽打ち枯らした姿であらわれるに違いないと、実はかすかに期待していたのかもし…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
38
 
 
  彼の言葉を聞き終える前に、ケータイを閉じていた。
 胸で呼吸をしてるのがわかった。過呼吸の発作のように、指先が冷たくなって痺れていた。電話をはなし、指をあたためて感覚をとりもどそうとして手を組み合わせる。
 なんで。なんでこんな嫌な気持ちにならないとならないの? あの浅倉くんに、あんな声を出させてしまった私がいけないの? ひどい。どうして、どうして私がこんなめにあわないといけないの。考えがまとまらなくて、蹲って泣いてしまいたかったけれど、ミズキさんに電話をかけないとならないことを思い出した。
 とに…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
37
 
 
  そう聞かれて、私は首をかしげていた。
「ミズキに泣かれると、つらい?」
「だって、普段あんなひとが、あんなふうに我慢して、誰にも見えないところで泣いてるのをほっておけないじゃない」
 涙をぬぐいながら切れぎれに言い継ぐと、浅倉くんは掠れ声で笑った。
「オレも、ミズキをほっとけなかったんですよ」
 それは、なんとなく想像できた。そう思っていたからこそ、気になったのだ。ふつうに親友と呼ぶにはすこし、いや、だいぶ、関係が歪んでいるように思えた。
 だから、もしかすると、浅倉くんはミズキさんの気持ちに気づいて…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
36
 
 
 「わからない」
 反射的に口を出たこたえは、一笑された。
「わからないっていうのは便利な言葉だね。姫香ちゃんみたいなひとが口にするとすごく可愛げがあって、それでなんでも許してしまいそうになる」
 自分の身体が冷たくなるのを感じた。そばにあった膝掛けをひっかけたところで。
「怒った?」
「いいえ」
 首をふると、ミズキさんが喉を鳴らして笑ったようだ。それから、
「怒ったほうがいいよ。姫香ちゃんはもっと、自分を大事にしたほうがいいと思う」
「ミズキさん?」
 意味がわからなくて、声が苛立ったのに、
「それでいい…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月23日 深更
35
 
 
 真夜中の電話というのは、なにかしら不安な、胸が痛くなるような予感にとらわれるものだ。
 さいしょの携帯電話の呼び出し音には、気がつかなかった。寝室ではなく、ダイニングで絵をかいていたからだ。二時半に、いくらなんでもそろそろ寝たほうがよかろうとベッドに腰掛けたところで、どうやら二度目の着信があった。
 三回コールで切れたものの、表示を見ないでも誰かはわかる。ミズキさんだ。着信音を変えたりしない。でも、誰から電話がかかってくるのか、メールの相手が誰なのか、外したことはない。折り返しすぐ、着信履歴を押した…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
34
 
 
 家まで送るというのを突っぱねたら、じゃあ、着いたら電話して、と約束させられた。南流山はそんなに危ないところじゃないぞ。しかも若い娘じゃあるまいしと口にしようとして、できなかった。
 幼い頃、セックスというのは若い男女のものだと思っていた。そしてまた、若いというのはせいぜい十代二十代のことで、三十代までは弟や妹ができる友達のいることを考えて夫婦のあいだでは存在するのだと想像し、四十代というのはもう、小学生の私にとって、そういうことと縁のなくなる年齢だと勝手に決めつけていた。そして、性愛がいつまで続くものか、…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
33
 
 
 一度、会ったことがある。男友達がお姉さん目当てで家に遊びにきたと自慢して私たちにでかでかとシスコンの判を押されていたけれど、ご本人を目の前にしたらそれも無理からぬ、と納得した。なんだかやたら迫力のある美人で、正直、アサクラ君と似てないなあとまで感じていると、オレはじいちゃん似なんですよ、とぼやかれた。彼いわく、お姉さんはどちらかといえば顔はお父さん似で性格は誰にも似ていないカリスマだそうだ。
「目鼻立ちしっかりしてるから化粧するとすごくケバくなるんすよ。服もよく選ばないとミズっぽく見えるっつうか。ほんとは…[全文を見る]

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3月22日
32
 
 
 こうして、アサクラ君とさえ始められるのかと、思った。
 キスが上手だろうと噂されていた。女同士の遠慮のない会話で、浮気するならアサクラ君がいちばん後腐れなくて楽しそうと無責任に評され、三ヶ月もたないと来須ちゃんに罵られ、修羅場になることもなく次から次へと違うひとと付き合い――じゃあ自分は、私は、どんなふうだったんだろう。私はじゃあ、ほんとは……
「センパイ?」
 泣いているのに気がついたのは、彼の手が濡れていたから。その湿った指で頬をぬぐわれたせい。大きな目が、こちらをのぞきこんでいた。
「なんで泣いてるの」
「…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
31
 
 
 そういう私用は常々いかんと思っていたのだが、背に腹は変えられないと自分を丸め込んでいたせいで、うんと言おうとして頷きそこなったのにかぶさるように叱られた。
「あれ、なんだか危なっかしくて」
「鍵、かけてたじゃない」
「オレと龍村さんは入れたよ。あと、担当の教授だか学生課の職員だかは入れたんじゃないの?」
「そうだけど、でも……」
 なにを言い返そうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。龍村くんはなにしろ、酒井くんから直々に、あいつ無茶するからフォローしてやって、などと頼まれていたそうだ。妙に気を遣われてい…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
30
 
 
  また、無言。
「アサクラ君?」
 彼は私の腕をはなし、さっきよりも大きな身振りで首をふってから太い息を吐いた。
「……なんでも、持ってるじゃん」
「浅倉くん?」
 顔をあげると、彼はこちらを見ていなかった。うつむいて、自分の足許を、尖った靴の先あたりを見ていた。私もつられて下をむいた。そこに、なにか大事なものが落ちているような気がした。もちろん、なにもない。
 何も。
「世間のことはどうでもいいよ。言いたいことわかるけど、ほんとはどうでもよくないけど、今はもう、そっから出たんだからさ」
 出たの? 出て、ないよ…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
29
 
 
 「……そうじゃないけど」
「いいっすよ。気ぃつかわなくて」
 座ったまま、彼はハアと息をついた。
「学園祭の、あの花火のとき」
 それは初めて、告白されたときのことだ。
「酒井さんと付き合ってるってセンパイが言った後、オレ、この人にこんな、泣きそうな声あげさせちゃうほどヤな思いさせたんだなって思ったらもう、あの場で穴掘って自分を埋めたいくらいの気持ちになったんすよ」
「それは、ごめんなさい。でも」
「センパイが謝ることじゃなくて。来須にも後で、センパイ泣かせたって跳び蹴り食らう勢いで叱られたし」
「……浅倉くん、来…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
28
 
 
 「ちょっと弱ってて、甘えたがったみたいだけど」
 彼はもう、私の言ったことを聞いていない風だった。
「ミズキ、昔からセンパイのかいた絵が気に入ってっていうか一目惚れで。だから会わせるの、やばいと思ってたんだ。無茶苦茶熱入れてるし」
「それはだって、絵のことで」
「ああもう、分刻みで仕事してるようなあいつが絵のことだけで毎日電話して小まめにメールする? オレ、ミズキが誰かのために奔走してるの見るの、初めてっすよ」
 私はこのニブイ男が憎らしくなった。今ここで、ミズキさんが好きなのはアンタなんだってば、とその細い…[全文を見る]

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遍愛日記のことを語る

3月22日
27
 
 
 飄々と言い切られて、絶句した。自分が怒りに震えているのがわかった。拳で殴ってやろうとふりあげた手をつかまれて見あげると、しずかな、こちらを観察するように落ち着いた、腹の立つほどもののわかりきった顔つきに出会う。
「殴ってもいいけど、それだけのことしたし。でも、センパイの手のほうが痛くなりますよ」
「じゃあ蹴る」
「はあ」
 はあ、って何だ。
 彼は私の手首をつかんだままトイレのほうを横目にし、とりあえず、人に見られないとこに行きますかね、とつぶやいた。
 え、と思う間もなく、引きずられるように五メートルほど歩…[全文を見る]