「助詞を理解する方法」をその進化の断層から探り出す|こだかな
今回の見出し画像は最近の人工知能頼みを反省し、天然無能による生成です。天然無能とはホモ・サピエンスのことですぞ。内容は助詞の進化論のココロだ。
お話しするにはログインしてください。
日本語のことを語る
日本語のことを語る
「あり」 〜 曖昧な境界線上の存在|こだかな
今回の見出し画像は“「蟻」が動詞でも形容詞でもなく名詞であるということを描いた少女漫画”です。本文の内容とは関係あり……ません。
日本語のことを語る
母語弱者と日本語文法論――文はいかにして成り立つか|こだかな
今回の見出し画像は Microsoft Copilot による合成画像「ラーメンとハンバーガーが戦う少女漫画」です。その心は? 本文をご覧ください。
さて今回は実は去年の7月に書き始めていたのだが、引っ越しやら何やらで時間が空いたり気分が変わったりして、途中でなんとも進められなくなってしまっため、結局全部書き直しにしたのであった。しかしその分だけ新たに色々なものを読んだり、発見したりしたこともあり、望外に十分な内容にすることができたと思う。まだまだ続きます。
日本語のことを語る
ちょっと前の話題ですが X.com から。
「なぜブラックジャックは医者が“いる”という代わりに“ある”を使っているのか?」という投稿をされたこの方はインドネシアの出身らしい。「いる」=人や有生物の存在、「ある」=無生物の存在、というように教わったものと推察します。
結論から言うと、このような使い分けが確立されたのはそう古いことではなく、昭和後期の大人はまだ「人がある」のような言い方をふつうに使うことがあったので、ブラックジャックの台詞は「何のために医者という人が存在するのか」という意味に取って差し支えないと思われま…[全文を見る]
日本語のことを語る
学校文法はなぜ「時代遅れ」になったのか|こだかな
見出し画像はおふざけです。内容はクソ真面目です。
日本語のことを語る
助詞の分類はそれでいいのか−−「より良く書く」ための文法論という立場から|こだかな
ちょっと大胆かもしれないが助詞の分類について、学校文法とは根本的に違う方法を提案します。
日本語のことを語る
「オレがクマを食べる」の「〜が」は何の助詞だと言えるのか?|こだかな
オレがクマを食べるんだよ。あんたはクマを食べないか? 的なちょっとした議論である。ヘッダー画像も一筆入魂。
日本語のことを語る
江戸時代に日本語の”進化論”を考えた学者が居た〜鈴木朖の《言語四種論》|こだかな
尾張名古屋の偉い人、鈴木朖がテニヲハを軸に日本語の構造を論じたことについて、解説します。
日本語のことを語る
鈴木朖《言語四種論》全文|こだかな
まずは近世の言語学の書、その全文から。次回はこれについて多少のことを論述します。
日本語のことを語る
日本語の動詞はなぜ文末に向かうのかという話しです。次回は鈴木朖の品詞論について書きたい。
動詞の性質が語順に関与すること|こだかな
日本語のことを語る
「主語」という観念とどうつきあうのか、文法の原理と現象を区別しようという提案です。
日本語に「主語」はあるのかないのか?|こだかな
日本語のことを語る
ここ数年あたたたためてきた住所の書き順に語順の原理があるという考えを説いていきたいと思います。
住所の文法と語順の原理|こだかな
日本語のことを語る
猫は鳴き方がにゃあ、なのです。
日本語の語順についてのいくつかの観察|こだかな
日本語のことを語る
文法論はじめました。まずは導入。体系的な日本語文法をめざして。
文と語順のこと|こだかな
日本語のことを語る
ここ数日、日本語の文法論について考えていたのである。人は眠っている間でも考えることができるもので、目がさめるととっちらかっていた考えがまとまっていることがある。これができると、ものを考えるために睡眠時間を減らさなくてすむのでよい。さて。
わたしもこの数年で言語学をちょっとはかじったので、文法についても学者の書いたものを読めば理屈はわかったつもりになる。されどわたしが欲しているのは、「こうなっている」というような観察的な文法論ではなくて、実際に文を書こうとするときに役立つような実用的な、「よりよく書く」ための文法論なのであった。…[全文を見る]
日本語のことを語る
ウェブ検索していてたまたま面白そうな論文が公開されているのを見付けた。著者は王丹丹博士(比較社会文化)。
日本と中国の若者の言語使用に見られる対人関係上の志向性 : 「卑語」、「ぼかし表現」、「アクセサリー化した方言」の使用実態を中心に - 九大コレクション | 九州大学附属図書館
分量があるのでまだ冒頭しか読んでいないけど、「論文要旨」の部分から引用するとこの辺に興味を感じた。
また、婉曲表現とされる「ぼかし表現」は、若者においては集団であることを強調する機能をもつことが分かった。このような親しい若者同士の間の「ぼかし表現」の使用は、従来言われてきた「摩擦の回避」より、「親密さを出す」という解釈のほうが妥当であると考えられる。
ぼちぼち読んでいきたい。
日本語のことを語る
い、が/の、は。それと「私は」と「私が」
日本語の主格の標示とセブンとローソンについてのあれこれです。
い
昔々、ある所に〈い〉という助詞がありました。
主語の格助詞としての働きがあることを認めたり、なかったり、副助詞としたり、辞書によって扱いが違うことがあったり、間投助詞としての条を立てたりもされる。他の助詞と連続して「いは」とか「いし」のような形でも使われた。分類はともかく、いくつかの働き方の一つに、少なくとも主語を「支える」性質も持っていたと見ておきます。
裸の母音が文節末に付くので、吸収乃至脱落が起きやすい。意識として…[全文を見る]
日本語のことを語る
(承前)第三回です。以下のことは「こうである」というのではなく、「こう考えたらどうか」という提案として存ります。
住所と文法
いつだったか、「住所は文なのだ」という思い付きを得て、それから日本語の語順に対する考えが、どうにかまとまるようになった気がします。
住所や氏名の並びは、日本語と英語を比べると、互いにひっくり返っているので、文法と関わっているように見えます。もっとも英語の語順は「整合的でない」というのですが(他の多くの欧州言語も)、住所氏名に関しては SVO 型の基本に一致していると見ておくことにします。日本語は「整合的」なの…[全文を見る]
日本語のことを語る
(承前)続きです。日本語の語順の文法的な、理屈にとどまるのではなく、作文に役立つような理解の仕方について考えています。「私は本を読む」のような模式的な短い文で済むことは実際には少ないので、もっと実際的な長い文での言葉の出し方をどう決めたら良いかということでもあります。
読み書きのために
繰り返しになりますけど、ここでの主題は、日本語の語順に対する理解を、読み書きの訓練につなげることにあります。
私は国語の授業でする作文というのが大嫌いで、書くことは苦手な方でした。1999年に出た大野晋の『日本語練習帳』は、自分にはあまり役に立たなか…[全文を見る]
日本語のことを語る
日本語教育における日本語文法と、日本の義務教育で学習する学校文法はちょっと違います。学校文法は王朝文法が基本になっていること、学習者の発達段階に応じた設計になっていることなどから、必ずしも言語学的には厳密でないところがあります。日本で義務教育を受けた方で、「なんか日本語がよくわからなくなってきた」というタイミングがきたら、そのときは日本語文法の学習がおすすめです。
学校文法では「主語ー述語」の順になること(述語が先にくるのは倒置)、「修飾語ー被修飾語」の語順になること、被修飾語が体言ならば連体…[全文を見る]