花子とアン
おとうと長男の対立を「いつの世も父と息子は対立するもの」と一般論に落とし込まれた時は、怒りで体が震えた。怒りのあまり、書かなかった、くらいです。正確に言うと、書いて、消した。罵詈雑言酷かったから。
今日はそこから、「わかりあえるのでしょうか?」的な流れ。
ああいう「いつでも自分を優先させるが故に不在の父」を持つ私から言わせてもらえば、和解はない。
正確に言うと、無です。無。いや、まじで。なれるとしたら無になって、ああ、これからはそこにいるのね?はいはい、ということくらいです。そこにいて、初めて存在して、そこからどうなるか、はあるだろうけど。
登場人物が、間違ったりダメだったりすることをどうとは思わないんですよ。そういうことをジャッジしたいとは思わないから。でも、脚本や演出に散見される都合の良さというのは、嫌なんですよ。その都合の良さは、創作という名を盾に傷や痛みを、もてあそんでいることに無頓着であるってことだから。