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勝手に引用のことを語る

時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈いて奔る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだんより一層惨めなあじきなさの中に自らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力めるようにさえなったのだ。

中島敦 狼疾記