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勝手に引用のことを語る

「ぼくは…」彼の車にはCDの聴けるステレオがあったが、いつもはCDを入れていなかった。一人で運転するときは仕事をし、電話をし、口述をしていた。疲れていて目を覚ましていたいときにはラジオをかけた。しかし、昨日のコンサートの後で、彼はバッハのモテットを録音したCDを一枚買っていた。彼はそれをかけた。
ふたたび、音楽の甘美さが彼をとらえた。いまではテクストも部分的に聞きとれた。「あなたはわたしのもの、わたしはあなたにすがり、わたしの光であるあなたをけっして心から去らせません」ーーそんな言葉を口にしたことはなかったが、妻を愛し、妻も自分を愛してくれていると感じていたときは、そのような気持ちだった。「わたしたちは草や花や落ち葉のようで,風が吹くと、もういなくなっています」彼はこの気持ちもよく知っていた。注文から注文,会合から会合へとせわしなく移動する人生において、どんなにしばしば、こういう気持ちになったことだろう。「あなたの腕のなかで、わたしはあらゆる敵の襲撃から守られています」いま、彼はそんな気持ちだった。高速道路の橋に保護されて,雷雨の襲撃から守られている。この雷雨からも、これから来る雷雨からも。

ベルンハルト・シュリンク「リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ」
(「美しい子ども」新潮クレストブックス 短編小説ベスト・コレクション 所収)