南相馬市の健康福祉部長だった西浦武義は、今年8月に市役所を定年で退いた。
代々の農家だ。市の海岸寄り、鹿島区の北屋形地区。海から4㌔の高台にある。通り抜ける風は潮の香りがする。字名にも「西浦」がつく。
(中略)
退職後は、農業のかたわら、鹿島区の生涯学習センターで再任用の市職員として働く。区の文化協会理事長として、囲碁や将棋、踊りなどの文化活動の運営の相談に乗る。
農家の長男だから、家業を継ぐつもりだった。ところが地元の農業高校に進んだ1960年代後半、国の農業政策は増産から減反へと大きく方向転換した。
農業ではもう食えないと考え、当時の相馬郡鹿島町役場に就職した。
「なぜ好きな農業ができないのか。なにが減反だ。腹が立ったね。そんだから反骨になったかな」
役場職員として福祉の仕事に長く関わった。現場で障害者と接することも多かった。仕事にすっかりのめり込んだ。その仕事ぶりが評価され、2010年4月に健康福祉部長に任命された。
しかし退職した今、自分の田んぼは塩水を吸い込み、雑草だらけだ。来年に向け、南相馬の一部では試験的に稲作が行われているが、「やるせない。不安だらけだ」。
コメをつくっても、風評被害で売れないかもしれない。同居の長男は会社勤めで、手伝ってくれる時間がない。
「それでも、やらないと自分がだめになる」
孟子の「惻隠(そくいん)の心は仁の端なり」という言葉が好きだ。他人を思いやっていれば、それが大きな徳に通じるとの意味だという。
プロメテウスの罠. 残された人々 16. 「惻隠の心は仁の端」. 岩堀滋. 朝日新聞朝刊. 2012.11.7. p. 3