「ゲーム依存症」なる概念が出てきたときから、これは危険な香りのする概念だと思っていたが、一方で「依存症」として解釈したほうが便利な様々な人々の振舞いがあるのも事実で、このへんをどうしたらいいものかと考えていた。
行動の選択の基準が破滅的なものに偏る状況をそう定義するのであれば、何がその「破滅的」たることを決めるのかと言うと実は文化依存的なところもあって、多分に価値判断を孕んでしまうところが危険性と言える。だから医療現場などで診断され得るものなんかは合意のとりやすいものになってくるんだろうけど、でも一方でプロスポーツ選手なんていくらでもいる中で出てきた「ゲーム依存」なんて概念は極めてきわどく、故に政治的すぎるものに思えたわけで。(もちろん現時点での医療現場に持ち込まれかたは極めて抑制的に見えるので、直ちに問題があるとは言えないとも思う。)
ただ、「日本SUGEE」とか排外主義者とか、あるいは「表現の自由戦士」とかと言ったものが自分の目には「依存症」にしか見えず、そしてこの捉え方というのは恐らく一般的には「政治性」を色濃く見出されてしまうだろうことが容易に予測される。
で、そこで重要なものが正義についての議論なわけだと思うんだけど、もしかするとある依存が病的、破滅的であるかどうかと言う判断の基準として、「どれほど正義に依存できているか」と言うものがありえるのではないかとか思ったりもして、また数少い安全性の極めて高い依存対象となりえるものこそ正義(何があってもあなたとみんなの存在だけは承認し得るもの)ではないかとか思う次第。
依存症のことを語る