前にここで「ノーノー・ボーイ」という本の話をしたと思うのですが。
この小説のタイトルになってる「ノーノー・ボーイ」というのは、第二次大戦の時の日系アメリカ人(の男性)の中で、「合衆国に忠誠を誓うか?」「合衆国の為に軍に入って敵と戦うか?」と政府に問われ、どちらにも「ノー」と答えた人の事です。で、こう呼ばれた人たちは、同じ日系人たちの中でもなんつーか、「非国民」として更に辛い目に遭わされた、という話があるのだそうで。
しかし、小説「ノーノー・ボーイ」の主人公の日系人青年イチローは、厳密には「ノーノー」ではなかったりします。
合衆国に忠誠は誓ったものの、「戦争へ行ったら日本にいる自分たちの親戚と戦うことになる、そんなの止めて!」という母親の意志を汲んで兵役を拒否した、という事になっているので「イエスノー」なんですね。まあ実際のところ、兵役拒否して収監されてたことで、他の日系人たちからも白眼視されてるあたりは「ノーノー」と大した差はなさげな感じではあるのですが。
で、この本が、「世界中にナショナリズムがはびこる今だからこそ読まれるべきなんじゃないか?」と思ったジャーナリストの手による新訳で出版された時の、記念パーティー的なイベントで、来場者に本について語ってもらおうという場面があったんだそうです。
で、真っ先に手を上げたのは、アメリカ文学を専門にしてる研究者だったらしいのですが、その人が何を言ったのかと言うと。
↑に俺が書いておいたみたいな、
「この本の主人公は厳密には「ノーノー・ボーイ」じゃない」
っていう、ただそれだけのことだったのだそうで。
その場に居た翻訳者さん本人、イベント企画に携わった、アメリカ日系人カルチャーに詳しいライター兼DJの人、俺の友達のアメリカ文学とか映画とかが好きな人(研究者じゃない)、
それ聞いてみんな、心の中で一斉に「そこかよ!」「違うだろ!」とかツッコミ入れてたらしい、ってことが打ち上げの席で判明して一同苦笑した……ってことがあったのだそうで。
知識は重要だしそれが正しいに越したことはない、のは一方の事実だけど、いつでもそれが最重要であるとは限らない、っつー好例なのかなーと、今思い出した話なのでした。つかマクラ長かった。