「五月人」について
http://www.gendaishicho.co.jp/news/n6013.html
「火星人やフランス人や日本人や文化人がいるのとまったく同じように、五月人がいる。そして最初の五月人がいれば、その後の五月人だっていることになるわけである。原則は論理的につねに保持されなければならない。運動(運動?)の総括などと言っても、その実体のない軛につながれていることをいまだに自らが望むのであれば、五月の空は逃げていくばかりである。永劫の昔から魔女キルケーの鍋の中でぐつぐつと煮立っていたのは、あえてこんなことを言わねばならないのは非常に気恥ずかしいが、つねに絶対的「自由」をめぐる問いだったのだから推して知るべしではないか。ソレルスは五月とは「春のクォーク」だと言っていたが、この言葉に何の留保がいるだろう。五月とは大気の香りであり、音楽であり、喜びであり、地霊のようにそこにあってないものであり、あまりにもむき出しの「反経験」であり、われわれ自身の物質的組成である変幻自在な「素粒子」である。「現在」というものが存在しないとしても、それはつねに「今」にしか存在できないものである。われわれはその場にとどまりながら、いつも旅をしているのだ。
ランボーのせいだったのかどうか、私はかなり早熟だったので、そのような経験に最初に触れたのは1969年だったが、68年に「そこに」いたわけではない。地方都市の中学二年生だったのだから無理もない。じゃあ、いま私は「政治」と「文化」一般の話をしているのか? へっ、とんでもない、まったく違うさ! 地霊が私に囁いている、私よりずっと若い友人たちも含めて、われわれはどんな時間の中にあっても五月人であるかもしれないのだ、と。」
わたしも混ぜて、正真正銘の五月人なので