想像力はもはや現実の「歴史」へと向かない。人々は「絆」と称しミニマムな世界の維持に必死である。(月刊未来まんが研究所vol.2p65)
ぼくたちが自分たちの言葉や表現だと屈体なく信じているものの多くが実は知らず知らずのうちにある枠組みの中で思考させられているという事態が実は数多く見られるのではないか。(定本 物語消費論p324)
ぼくが一人のまんが原作の作者として現在のまんが分化の国策化に警戒せざるをえないのは、ぼくたちの表現は否応なく国策との関わりの中でかつて立ち現れてきたことを自分たちの起源として忘れるべきでないと考えるからだ。そのことは自戒として記しておく。(アトムの命題p245)
表現の出自などはどこまでいっても政治的なのだという当たり前のことを改めて愚直に書いているだけである。(映画式まんが家入門p13)
かつてエンターテイメントとして人々を動かす技術は、政治的に人々を動員する技術にあっさり転用されてきました。それはある意味でとても恐ろしい技術であり、だからこそぼくは一人の作者としてその危険な技術の担い手であることに自覚的でありたいと思うのです。(キャラクター小説の作り方p312)
何か事件が起きて”透明な一四歳”の類の連中の本棚に『サイコ』があったらどうするんだ、と奇妙な心配をしてくれる人がいる。そうなったら、誇るよ。届いたことに胸を張る。そのための速度だ。そのためのサブ・カルチャーだ。(サイコ 阿呆船 あとがき)
「教育」はするけど「動員」 はしない。それがギリギリぼくのルールだから。(愚民社会p74)
以上、大塚英志ぼっとさんよりhttps://twitter.com/#!/otsukaeiji_bot
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ある意味じゃ「教育」されちゃったのがわたしですけどねえw(べつに先生にだけ教わったわけじゃないの、くらいのことは言っておくし)
とはいえ大塚先生だけは先生と呼ぶ、じっさいに講義うけたからね
もふたつ、いってみよっか
「チープな小説が書きたい。死ぬ程不用意で杜撰で、三年たったら小説の名も忘れ去られてしまうただ消費されるための小説を。(サイコ 雨宮一彦の帰還 講談社ノベルス あとがき)」
「良質なキャラクターグッズとしての小説であることと「文学」であることを両立しても構わないのです。それは作者としての製造者責任と社会的責任の両方に応えようとすることに他ならないのです。(キャラクター小説の作り方p280)」
さて、わたしはどこへ行くかなあっと♪
勝手に引用のことを語る