拙ID頁においてたのをちょっと変えて再掲
パスカル・キニャールぼっとさん(https://twitter.com/#!/PQuignard_Bot)
出来得ることなら、下から順に読んでいただいたほうがいいかもです
いや、断章形式なのでどこから読んでもいいのですがしかし
キニャールは、世界最高の知性の持ち主のひとりであると、わたしが信じてるひと
(昨今では、伊藤計劃氏がインスパイアされた重要作家のひとり、ていうほうがいいのかも?)
二十歳でラテン語とギリシャ語教師をつとめ、二十一歳にはかのガリマール社の原稿読みだった
ホンモノの、真実の「知識人・教養人」
そのひとの座右の銘が「人は自分の言っていることがわからない、人は自分のしていることがわからない」であることの意味を、意義を、わたしはもっともっと理解しないとならない
または、「ラトロは理(ラティオ)と情(アフェクトゥス)はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると《in ratione habere aliquem locum affectus》〔理にはその一部に情念が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。」と記すとき、その背景に横たわる「歴史」の重み自体を少しでも感じ取り、理解したいと願う
ちなみにたしか、オオエのうたの出典や記述そのものがなぞのまま、訳者さんもわからないとのこと
どなたか御教示いただければ幸いです
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意識の自由は、メイフラワー号で運ばれた積荷のなかには入っていなかった。民主主義はついに大西洋を渡らなかった。
自分が楽しんでいるときに、私たちという主語を使う人を私は信じない。
孤独なしに、時の試練もなく、沈黙の情熱もなく、不安のなかでの揺らぎもなく、暗くて見えないもののなかでの彷徨もなく、友情の思い出もなく、憂愁もなく、憂愁のなかでの孤立もない、喜びはありえない。
孤独、運、強情、死の危険、解毒、明晰、沈黙、迷走、裸、隠遁、逸脱、天与、直接性、不安、興奮は、どれもフランク[直戴・率直]であることの価値だ。フランクであることの価値は、どれも秘められたものだ。視野がせまい位なら、盲点のほうを大事にする。フランクとは非社会的であることだ。
時の波打ち際は、この世界のなかに位置する場合もある。それは往古と死のあいだに位置する。オオエはナルミに、こう書いた。私は急ぐ 引潮であらわれた かすかな道を。
どんな時代にも、自分が属する家族や氏族と縁を切った個人はいた。動物集団のなかに最初の世帯が生まれるやいなや、群れから離れる決心、周辺に生きる選択は忽然と現れる
この地上のあらゆる神話は宣言する。氏族間の交換と血縁の結びつきを守るためには幸福な恋愛などあってはならぬ。だが、これは誤りだ。幸福を味わった禁断の恋はあったからだ。誰よりも幸福だった孤独な人、隠者、放浪者、周辺人、シャーマン、分離派、隠士はいたからだ。
口承の文学では、つねに語り手は社会だ。
聖書は言う。孤独な人間に災いあれ!孤独な人間は死んだ人間だ。だが、これは誤りだ。それはいつも社会が言う言葉だ。
社会的帰属の拒否は、あらゆる人間の集団にとって罰せられるべきものと映った。この処罰がそれぞれの神話の基礎をなしている。恋愛がそうであるのは、繁殖を確保するために、集団成員間で規範化され、階級化された交換を破るからだ。
どんな共同体にしろ、外側の空間の彼方から、大気圏の彼方から、生誕の上流で放たれる徴としての社会的認知を求めている。つまり帰属の徴を求めているのだ。熊、雲雀、女、同性愛者、病人、乞食、放浪者、音楽家、画家、作家、聖人たちは、政治権力に通報したりしない。
自分が働く集団と連帯している個人が求めているのは、より大きな肉体のなかに融合することだ。入れ物に身を任していた昔の喜びを取り戻すのだ。
スピノザは群衆、ヴルグスと、友、カルスを、相容れない両極として対立させていた。彼は言う、われわれは、隷属は主たる取引となった人々に自由を期待しない。
看守と脱獄者を同時に兼ねることはできない。
専制を渇望する者や、神々の系譜を維持し、血縁の権威を守ろうとする者はいても、鳥が羽ばたき、啄ばみ、跳ね、あらゆる方向に首を回すように、望み、得て、隠れ、動き、生きる可能性を有効に利用しようとする者はひとりもいなかった。誰もが自由を拒んだ。
中国では書を読むことが文明の基礎をなしている。誰もが読むのをやめたら、文学はかえって高く評価されて戻ってくるだろう。この経験は隠者の住まいを再建するだろう。それほど、この経験に匹敵する人間の経験はほかにない。これほど脱社会的な経験はない。
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もいっこ、
「作家と音楽家が落ちこぼれるのは確実かつ永続的だ。画家、建築家、モデル、映画スター、政治家、司会者、説教師、暴徒、生中継の死者の評価は安泰だ。」
これ、キニャール自身が作家と音楽家だから、なのよねきっと
穿ってみなくとも
「芸術を従属の美化、過去の伝説化、来ては過ぎ去る時間をそのつどごまかす仕掛けだと見なすのは、全体主義体制下の考えでしかない。芸術家が懸命にそこから身を引き離そうとしているときに、人間社会における役割を果たせるわけがない。」
これは当然として、
こちらも、
「個人は水面で持ち上がる波に似ている。そこから完全に離脱することはできない、しかも、結束する大衆のなかでたちまち転げ、呑みこまれる。それはつねに自分を運ぶ潮のあらがえない動きのなかで転げる。それなのになぜ、何度も何度も身を持ち上げなければならないのだろう?」
個人の生の営みへの大いなる問いとして、
「それなのになぜ、何度も何度も身を持ち上げなければならないのだろう?」と問いは、日々の暮らしに疲れ果てていても忘れないでおきたい
当然のことながら、波も泡も川も海も岸辺もキニャールの小説のなかでくりかえされることばで、それぞれに何万語も費やせるだけの「背景」をもっている
断章形式をよむ、そして書くのは至難の業なわけだけど、これ、じぶんでいまやってみて巧くやれれば凄く面白いことができるのよね(このれべるでできてるっていってるわけじゃないよ、でもオモシロイのだよ、すごく!) ジュネが、どこに一行あきをもってくるのか、どの順番にするのかってことに腐心したのがよくわかる 展開の妙、というのかな
あと、
「ペリー提督が自由貿易と呼ぶものは、アメリカ流の通商を意味していた。アメリカ流の通商は、古代ローマ人が講和 パックス と呼んでいたものにかなり近い。これらの言葉(自由、講和)は、英語にせよラテン語にせよ、何を意味するのかわかったためしがない。」
このへんも
いちばんさいしょの語句といっしょに
そして、
「この海には岸辺がない。 すべてが呑みこまれる。 なおも水面に顔を出す魚。 死なないための一呼吸。 呼吸、つまり読書。」
おそらくここと呼応するであろうと感じながら
小説家は、恐ろしいことに、じぶんの記した言葉すべて、どこになにがどうあるかは「理解」しているものだという思いを抱きつつ