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勝手に引用のことを語る

ぶくまでもう話題になってるものですしもしかしたらもうこのへんで話題になってるかもですが
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立教大学は創設以来リベラルアーツを重視してきました。リベラルアーツはここで述べてきた意味での「考える」技法を習得するための訓練体系です。
そのような伝統をもつ立教大学の大学院で学んだ皆さんは、「徹底的に考える」経験を積み重ねた結果、本日の学位授与式に臨んでいるのです。

さて、これまで述べてきたことからもお分かりのように、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。
皆さんの中には、これから社会に出ていく人も、大学院生として後期課程に進む人も、また、大学や研究所で研究者としての歩みを続ける人もおられることでしょう。社会人として働きながら本学に通い、これから次のステージを目指している人もたくさんいるに違いありません。
皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。
それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。

どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。
 
卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)
http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/president/conferment/
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http://h.hatena.ne.jp/florentine/243603503081479418
わたしはここで「「敢えて言う! ギリシャ語とラテン語(欧米人版)、または古文漢籍外国語(日本人版)の素養がなければ『教養がある』とは言えないと!!」くらいのものが最終回答」としてはいるのだけど、
きわめて一般的なはなし、「教養とはリベラルアーツ(http://b.hatena.ne.jp/entry/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%84)である」ていうことがくりかえされているのをみるのは、わたしてきにはたいそう快いことであったりする
 
ちなみに、わたしの卒業した大学の創始者がのぞむことは、「卒業者は教養があり、しっかりした精神的背景を持ち、しかも外語を自由にする人格であることを期するわけである。」というわけで、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい 汗」とひたすらひらあやまりしつつ、大学が「学問を通じ人間形成の場」であるという考え方はわたしの肌身でかんじたと言いたいとはおもっている(いやできたかどうかはねえ、それはさあ、はははw)
 
4月から新年度、新規一転というかたもいらっしゃるでしょう
わたしもそうしたいと願いつつ、なんにもうごけないままきちゃいましたw
それでも、こういうことばをきかせてもらうと「勇気」がでるなあとおもいましたまる