id:florentine
勝手に引用のことを語る

「私たちは作品がもつもっとも本来的なものとして語調トーンに敏感であり、作品を通じてその語調に感嘆するとき、これは何を意味するのだろうか。それは文体スタイルではなく、言語がそそる興味関心や言語の質でもなく、明らかに、こうした沈黙であり、こうした雄々しい力である。書く者は自己を喪失し、自己を断念してはいるが、この力によって、こうした消失状態にありながらも、ひとつの能力をもつ権能、沈黙する決断を保持してきた。それは、こうした沈黙のなかで、始まりもなく終わりもなく語るものが形態をとり、一貫性をもち、聴解されるためである」
「文学とはおそらく、本質的に(私は「唯一」とも「明白に」とも言うまい)異議申し立ての力である。それは、既成権力への異議申し立て、存在するものへの意義申し立て、言語への、文学言語の諸形式への異議申し立て、そして、権能としての意義申し立てそれ自体への異議申し立てである」
「文学が表象しているのは、可能性というものにはおそらく依拠していない一種独特な力である(ところで、可能性だけが弁証法と何らかの関係をもつ)。すなわち芸術とは、無限の異議申し立てであり、それ自身の異議申し立て、および他のあらゆる形をした力への異議申し立てなのだ――そしてこのことは、たんなる無秩序においてではなく、芸術と文学とが表象する独特の力(権力なき権力......)の自由な探求においてなされるのである」
 
モーリス・ブランショと時代―「来たるべき書物」から「書物の不在」へ
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/blog/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%81%A8%E6%99%82%E4%BB%A3.pdf
こっちも
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/blog/2007/11/report-maurice-blanchot-and-th/
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ブランショを「理解」しているというのは恐ろしい(恐ろしいYO!)ことなのでいわないけれど、わたしにはすごく馴染みがいい
じぶんがもっともっとものすごーーーーーーーーく頭がよかったらこう言う、て気がする
キニャールを読み始めてやっぱりブランショ読まないとダメかと手に取って(ジュネよんだころから思ってたんだけど腰が重かった)、まだほんの、ほんのちょびっとずつしか読めてないんだけどひたっている
ひたるようなものではないはずなんだけど
でも
誰かの思考、いや、この場合はブランショというひとでさえ(というかブランショだからこそ!)その名前を剥奪して読むべきなのかもしれない(という誤解を招く粗っぽい言い方でいってみる)「誰か」の思考に身を浸していくことの快さ、というのはあるとおもうの
たとえば上記のことばにキニャールの声を聴きとることやジュネの態度を感じとることとかも含めて
ところで、
そうだよね、「文学とは、言語への異議申し立て」であるというのはやっぱり大事だよな、と
「文学言語の諸形式への異議申し立て」というのは誰でもすんなり理解できることとおもう 来たるべき文学っていうのはだいたい過去の遺産から滋養をくみとったうえでそれに異を唱えてる、つまりたんじゅんにいうと新しいカタチをしているものであるから
ここらへんで断片の問題にも言及しないといけないんでしょうがわたしバタイユの断片形式をまだちゃんと読んでないし、いやしかし日本には素晴らしい断章形式文学が枕草子以降常にあるとか思い出したりしながらも、そろそろ「花うさぎ」第三部今夜掲載分を確認しにいこう、うん