“二つの用法がある言葉” として挙げるにしても、これについては そのひとつが明らかに本来の用法ではないので、私が今から書く内容は 元のエントリからちょっとズレたものになるかもしれませんが。
(結果として)二つの用法があり、そのひとつは本来的には間違いなのだけど 巷では間違った用法で使われる場合のほうがむしろ多い、という言葉として 私が真っ先に思い出すのは《確信犯》です。私が、とは書きましたが、これに関してはそのように思う方々が かなり多くいらっしゃるのでは。
確信犯とは、もともとは(宗教的/政治的信念も含め)それを行う人が正しいと信じて行っている つまり自分は悪いこと/間違ったことはしていないと思っている人 (政治犯や思想犯 等) を指しますが、いつ頃そうなったのかまでは知りませんが 世間的には “悪いとわかっててやってる人” を指して使われることが非常に多い。
で、私は その使われ方が気になる。言葉は移り変わるとはわかっていても、そして すべての言葉を本来の用法のままに使うべきと必ずしも言い切るわけではないが こと《確信犯》に関しては気になる。
で 結局、人と話す時にそれを使いたくないわけです。それも、話す相手によって。
例えば、相手のことをすごくよく知っていて、この人なら本来の意味で使っているだろう(実際その人が本来の意味で使っているのを聞いたことがあるなど)とかがわかる状態、あるいは 私が本来の意味で使い、相手がもうひとつの用法のほうが正しいと思っていて 私の使い方をただしてきたとしても、本来はこうだよ等 言い合えるような間柄の人の場合。そういう場合は、本来の意味で使います。
しかし、それほど親しくもなく(職場が同じなだけとか)、相手がこの言葉について仮に もうひとつの用法のほうが正しいと思っていたとしても、本来はこうだよ などと言うのは気が引けるくらいの間柄の人と話す場合。そういう場合は、本来の意味でも もうひとつの用法でも どちらでも、私は頑なに使わないのです。例えば、話の流れで相手がこの《確信犯》という言葉をもうひとつの用法で使ったとして、なにしろ気を遣う相手なわけだから それに対しては相槌を打ったとしても (同意ではなく あくまでも《相槌》です)、その会話の中で、自分は使わない。
また、そんなふうに親しくない人と話す場合、その人が《確信犯》という言葉を私より先に言わなければ、その人が本来の意味で使っている人である可能性もじゅうぶんにあるわけで つまり その人がどちらの用法で使っている人なのかが(親しくないがゆえに)わからないわけで、そういう場合もやはり、自分では使わない。通じるだろうと思って本来の意味で使って それ違うよと言われるのも嫌だし、へんに先回りして あえて もうひとつの用法で使ってみたら 相手から 本来はこうだよと言われたりするのも嫌だからです。だから、自分からは極力使わない。その会話が、どんなにか《確信犯》という言葉を使いたくなる流れになったとしても。
まあ、そんなに《確信犯》という言葉を使う必要があるような会話の流れにしょっちゅうなるか? というのが そもそもあります。なのに、こういう場合私は使わない、とか決めているわけです、自分が(本来の意味で言っているにも関わらず)間違った使い方をしているかのように誤解されるのが嫌だから。
つまるところ、私がどれだけめんどくさい人間か、という話に行き着いてしまいまして これだけの幅を割いてたったそれだけの結論に至って申し訳ない的な。