自分で自分の身体をかきむしるのが、最高の激昂の姿である。これは自分で自分の不幸をえらびとることに他ならない。自分で自分に復讐することに他ならない。子供が最初このやり方をやってみる。自分が泣くことに腹を立ててなおさら泣く。腹が立っていることに苛立って、自分をなだめまいと決心することによって自分で自分をなだめる。それがつまりすねることである。自分の好きな人を苦しめることによって二重に自分に罰を与える。自分をこらしめるために自分が愛している人をこらしめる。知らないことを恥じて、もう決して読むまいと誓う。強情を張ることに強情を張る。憤然として咳をする。記憶のなかにまで屈辱をさがす。自分で自分の感情をとげとげしいものにする。自分を傷つけ、自分を侮辱することを、悲劇役者の演技力でもって自分自身に向かって繰り返し語りかける。最悪のものこそが真実であるとの規則にしたがって、物事を解釈する。自分を意地悪な人間に仕立てあげるために、無理に意地悪な人間気取りで行動する。信念もなしにやってみて、失敗すると、「賭けるんだったな。たしかに勝つ手だったんだから」などと言う。だれもがいやになる顔をし、また他人たちをいやがる。いっしょうけんめい人を不愉快にしながら、気に入られないのを不思議がる。むきになって眠ろうとする。どんな悦びでも疑ってかかる。何事につけてもうかぬ顔をし、何事にも反対する。不機嫌から不機嫌をつくり出す。そういう状態で、自分を判断する。「おれは臆病者だ。おれは不器用だ。」「おれはもの覚えがわるくなった。おれは老けこんだ」などと思いこむ。わざわざいやな顔をつくって、鏡でその顔を見る。これが不機嫌の罠というものである。
(……)焦燥というものは、必ずどこかに出口をもてめて、ために必ずどこかを傷つけずにはおかないものなのである。
(アラン『幸福論』pp.67-69)
※自戒をこめて。