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ホリィ(新人)のことを語る

この「尊良親王御墓所見込地」というのも微妙な経緯のようで。

この辺りで経塚が発見された幕末当時はあまり注目されなかったのが、明治維新後の建武中興の顕彰の流れを受け、経塚の出土品からここが尊良親王の墓所であると解されて、明治9年に建てられたのがこの石碑だそうで。
でもその後どういう経緯かは分かりませんが、京都市内に親王の陵墓が指定されたため、「見込地」のままになってしまったということのようです。


金ヶ崎城はこんな立地です。手前はJR貨物の敦賀港駅ですが、今は列車が運行されていないそうです。
金崎宮の創建を受けたものか、Wikipediaによると元々は金ヶ崎駅として明治15年に開業されたそうで、明治30年にはいったん貨物取扱所に降格したものの、明治41年に再び駅に戻され、明治45年からはウラジオストク航路発着日に限って旅客運送を再開し、大正8年に敦賀港駅に改称とのこと。その後も敦賀港の盛衰と共に歩んできたようです。

こちらは金崎宮にあった、金ヶ崎城と天筒山城の模型です。
右側の山が天筒山で、これによると2つの山の尾根伝いに防御施設が築かれていたようです。天筒山城が支城と呼ばれますが、むしろ一体化した城と捉えるべきでしょうか。あるいは、元は付城として築かれたものを拡張していったものか。
朝倉氏は当時一流の築城技術を持っていたようですし、幕府方(信長)の侵攻に備えて相当な防備を固めていたでしょう。

「金ヶ崎の退き口」の背景については、池田勝正研究所ブログで詳しく検証されています。
http://ike-katsu.blogspot.jp/2010/12/blog-post_10.html