余談ですが尾藤知宣の最期、小田原開城後に帰参しようとして逆に秀吉によって手討ちにされたという有名な話、『武辺咄聞書』に収録された逸話のようです。
http://www.kikuchi2.com/buhen/buha116.htm
この話だと尾藤知宣は改易後「天下御かまひ」(いわゆる奉公構でしょうか)とされたため北条氏政に仕えていて、秀吉に抗戦を続けて同じく北条方となっていた柴田勝家の猶子・佐久間久右衛門安次兄弟が「誠に大丈夫也」と秀吉に賞されて赦されたのを聞き、秀吉が小身の頃から功を立てた自分なら当然許されるだろうと思い僧体となって参上したとありますね。
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「佐久間兄弟か小田原に籠りたるは道理の至極也。尾藤め大罪也。其謂は誠に赦免を願は、洛外にも隠れ居、此度小田原発向の先手に加り、陰の奉公して社尤なれ。我と弓矢を取、氏政に奉公し、落城已後かやうの仕形、言語道断、悪き次第也」とて御歩衆に引張せ、備前兼光の御腰物にて御手討に御成敗。天下の人「御尤」と不申はなし。
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また、仙石秀久との対比で尾藤さん可哀想、という感じで採り上げられることが多いこの話ですが、上記のように元々は尾藤の卑怯な振る舞いをあげつらったものだったんですね。
そういえばマンガ『センゴク権兵衛』では熊野で仙石、藤堂、尾藤の三将が湯川党と戦ってますが、ちょうど今週は尾藤知宣が活躍するのかしないのかというところでした。
この頃は弟の尾藤久右衛門も秀長の重臣だったようですが、その娘が石田三成の正室「うた」になります。『真田丸』にも出てますね…と無理やり話を戻して終わります(笑)
