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ホリィ(新人)のことを語る

後藤又兵衛はこの道明寺合戦の緒戦で一旦は徳川方を撃退したものの、真田・毛利両将の援軍到着が遅れたために、伊達軍の猛攻を受けて討死したと伝えられています。
それならば後藤又兵衛討死の地として顕彰されても良さそうですが、こちらの墓碑は江戸時代に水野氏の子孫らによって先祖が顕彰されたもののようです。
妙なことに地元には「小松山」なる地名は伝わっていないことで、柏原市の以下の記事によると、帝国陸軍参謀本部による編纂史料『日本戦史 大阪役』が初見のようです。
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015032900066/?doc_id=2953

夏の陣から約半世紀後に記された『河内鑑名所記』にはすでに戦跡地として玉手山の「勝松」の地が挙げられていたそうで、現在もこの古墳跡の前には「勝松公園」があります。徳川にとって縁起の良い地名で呼ばれるようになったのでしょう。

「南都奉行 奥田三郎右衛門忠次戦死之墓地」とあります。

墓碑の隣には、「奥田忠次君并臣五勇士墓前 浪華市尹 水野若狭守」と記名された歌碑があります。源忠一とありますが、水野勝成の子孫でしょうか?勝成の四男勝忠の子孫で若狭守忠通や若狭守道一を名乗る大坂町奉行がいたようです。

柏原市文化財課のコラムにも記事がありました。歌碑の内容も翻刻されています。
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015052100019/?doc_id=3196

  • 時は幕末、大坂東町奉行の水野忠一や大坂船手の甲斐庄正誼(かいのしょうまさよし)、鉄砲奉行の西井資英(にしいすけひで)、材木奉行の杉浦年英(すぎうらとしなが)、弓・具足奉行の石川通睦(いしかわみちよし)、破損奉行の宮寺一貞が、忠次の墓碑を訪問し、称える和歌を詠んでいます。嘉永二年(一八四九)には、その和歌が刻まれた石碑が忠次の墓碑の横に建立されました。
  • これ書いたのは天野忠幸先生ですね。なんという偶然。

    http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015020600053/
    又兵衛の記事もあり、玉手山に「後藤又兵衛基次之碑」が建てられているようです。うーん見逃してしまった…。夏の陣400年にちなんでパンフレットも発行されていたみたい。
    http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014100300159/