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ホリィ(新人)のことを語る

今日は図書館で濱田浩一郎氏の『播磨赤松一族』をボヘーと読んでたんですが、『姫路市史』に挙げられているという赤松政則の作刀一覧に気になる情報を見つけました。

(1) 文明14年6月14日 薬師寺彦四郎橘則隆
(2) 文明14年6月20日 喜多野孫右衛門藤原則綱
(3) 文明14年7月14日 薬師寺四郎左衛門尉橘貴能
(4) 文明14年8月1日 東条小太郎藤原友盛
(5) 文明14年12月27日 刑部少輔則途
(6) 長享3年8月16日 織田大和守藤原敏定
(7) 長享3年8月17日 魚住又四郎実安
(8) 延徳元年11月6日 神山駿河入道周賢
(9) 延徳元年11月15日 小倉小四郎源則純
(10) 延徳元年12月11日 広峯九郎次郎源純長
(11) 明応3年12月12日 自分用?(従四位左京大夫 源朝臣政則作とだけ)

11本のうちほとんどは家臣に与えたもののようですが、気になるのが(6)織田大和守敏定、清州城にあって尾張守護代を務めた人物。(信長はこの大和守家配下の三奉行の一つ、弾正忠家の出身です)
応仁・文明の乱では斯波義敏を擁立する清州城の大和守家が東軍、斯波義廉を擁立する岩倉城の伊勢守家が西軍に分かれて争いましたが、この頃は家臣の朝倉氏に越前を奪われた斯波義敏の子・義寛が守護として織田敏定に擁立されていました。


この片目の肖像画で有名な人物です

長享3年(1489)といえば、赤松氏は山名政豊を坂本城から追い出して再び播磨を回復した翌年にあたり、幕府では第一次六角征伐が将軍義尚の陣没によって中断となった後です。
延徳2年(1491)8月からの将軍義材による第二次六角征伐では、赤松政則は武田元信とともに軍奉行として従軍しましたが、この時に織田敏定とともに大津の六角政綱宿所を攻撃して六角政綱を討ち取ったのが、浦上則宗でした。

背景としては第一次六角征伐に朝倉軍が参陣する中、朝倉氏の越前支配を打破しようとする斯波義寛・織田敏定が管領の細川政元に対して、かつて朝倉孝景の東軍帰参を認めたのは西軍解体という目的のためと細川勝元の説得を受けてのことで、その地位を後継者の朝倉貞景がそのまま受け継いで、斯波氏と同等に将軍への直参の奉公人として認めるわけにはいけない、と訴えた事件があったようです。
(松島周一氏『延徳三・四年の織田敏定と細川政元 -『朝倉家記』所収文書を通して見る十五世紀末の幕府政治と尾張-』)

また、(8)では神山駿河入道周賢に対して刀を与えていますが、浦上則宗が朝倉貞景の件で幕府と織田敏定の間に立って仲裁した際、使者を務めたのが「神山殿」とあり、この人物のことかもしれません。